蛍の光

私が生まれてこのかたほとんどの時間を過ごしてきた「学校」なるものに関する色々です。
◆教員失格 

学校に勤めていると、学校の先生になれる人達というのは、優秀で真面目な人達なんだなとつくづく思う。嫌みではなく、というのも私はヤンキーが母校に帰って良い先生になれるとは思わないたちなので、それはそれで良いと思ってはいる。ただ単に自分がいかに学校向きでないかを思い知らされ、途方にくれるのである。


学校は一つの社会だから、社会の常として成員に学校的振る舞いを要求する。私はどうも昔からこの振る舞いに馴染めない。家に学校の先生が二人いたにも関わらずだめである。先生といっても、二人とも今の先生とは何か違う。そもそも父は先生というより柔道だけ強い(らしい)不品行な孤独な親分だったし、母は猛烈教員だったが、意外とおっちょこちょいでやんちゃな所があった。


不思議に思うこと。学校の先生はなぜ、忘れ物にあんなにこだわるのだろう。忘れ物をすると確かに本人や周りが困るから忘れないにこしたことはないが、忘れまい忘れまいと緊張したって忘れるものは忘れる。

私はよくランドセルを忘れて学校に行ったり帰ったりしたが、忘れ物をしないように重々点検したうえで忘れているのだからどうにもならない。忘れ物というのは気分のたるみとかだらしなさとかが原因でおこるというよりも、ふとした偶然でおこる現象だと私は思う。だから原因であるだらしなさや横着さを矯正したところでおこる時には起こる。

不思議なこと。なぜあんなに提出物にこだわるのだろう。確かに世の中期限内に出さないと不利益をこうむったり迷惑をかけたりする事が多い。しかし、期限内に出さないものにはそれなりの理由があることがある。利益はいらないとか、とにかく面倒臭いとか、どうでもよいとか。大抵否定的な無気力な理由だが、人生に意欲的でないからといって一概に悪いとは限らない。


不思議なこと。「そんなことなら帰れ!!」とか「やめてしまえ!!」と言っておいて相手がいうとおりにしたら怒るのはなぜだろう。素直な相手なら言われた通りにするのが当たり前だ。普段指示に従わないと怒っているなら尚更不思議だ。



不思議なこと。◯◯するぞ、と脅されて「したらー?」などと生意気なくちをたたく生徒に、「すみません」と言っておけばよいのにと嘆息する。何故だろう。◯◯するぞなんて脅迫されてすみませんなどと言う腰抜けは若者ではない。(少なくともギリシャ的には自由人ではない。奴隷だ)それに「したら?」だったら丁寧な方だ。脅迫など卑怯な輩には「してみやがれ」と言うのが普通ではないか。

先生に挑戦的な態度をとるのも同様だ。なににつけ偉そうなものには攻撃したり、無視したり、軽蔑したりして痛い目に遭うのが若者ではないか。人生のはじめからニコニコペコペコしている方が問題だ。



不思議なこと。なぜ生徒が学校の外ではめを外すことを警戒するのか。学校から帰ったあとは家庭の事だ。派手な格好や化粧をしようが、派手な人達と遊ぼうが泊まりに行こうがそれは家庭の方針であって学校の先生には関係ないのではないか。私が今時の中学生なら勿体なくて家になどいられないと思う。勉強などしたこともない格好だけは良い男友達と花火を水平に飛ばして遊んだり、「旅に出ようぜ」と行けるだけ遠くに行くだろう。


不思議なこと。なぜ中学生の多くは学校の周辺をウロウロしていてもっと遠くに行かないのだろう。せっかく若い身体を持っているのに勿体ない話である。


というような事を考えていては良い先生にふさわしい行動がとれるわけがない。

2011/10/31(Mon) 22:38

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