きら星

どこかで会った人びと
◆浦島の人 

母を病院に連れて行き待合室に座っていたら壁に「認知症は単なる物忘れではありません」というポスターが貼ってあった。それをみて母は「認知症というのはやれんものだ」と話し始めた。そう、それはあなたの事ですと心で叫びながら聞いていたら同じ村の老人Tさんの話をするのだった。


Tさんはある日広島大学附属病院に検査に行った。終わって駐車場の自分の車の所に行ったが、そこから後は全く判らなくなった。
家族は手を尽くして捜したがみつからない。不明のまま数年が過ぎた。
数年後のある日突然、京都のある家で一人の女性と暮らしていたTさんは思い出した。広島大学附属病院の駐車場で車に乗ろうとした事を。そして何故か駅に行って新幹線に乗り京都に来たことや、広島の山奥の村に妻子や孫が居ることを。
そうしてTさんは帰って来て今も健在で村に住む。
何故京都に行ったのか、何故見知らぬ(はずの)女性の家で暮らしていたのかは未だにわからないそうである。

という話をする母に「それはもう認知症というよりは浦島太郎の世界じゃないか」と私は呆れて言った。世の中には正に小説より奇なことがあるものだ。
いや待て。
もしかすると隠れ太郎さんや太郎になりそこねた人は結構いるのかもしれない。面白くもなさそうに陰鬱に日々を過ごしていた父が、死ぬ前年私にぽつんと「人生は面白いもんだ」と言ったのがいつまでも不思議だったのだが、もしかしたらその時父はTさんにあやかろうと思っていたのかもしれない。

2010/10/11(Mon) 18:52  コメント(0)

◆G先生 

この夏、恒例の宮島合宿にG先生の姿はなかった。
講座のボスである先生がいないとは、と不信に思っていたらご病気であるとそっと耳打ちされた。難病らしい。この二年間休学していたのでさっぱり知らなかった。四月にメールのやり取りをしたきり御無沙汰している。今年になってからは、トレードマークである単車にも乗られなくなり、最近は大学も休まれている状態だということを今頃になって知った。


いつからこの病気にかかられたのかは解らないが、初めてお会いした20と数年前の酒の席で、私の主査だったK先生が「彼は不治の病だから」と紹介していた。冗談だと思っていたがその頃からなのだろうか。

最近実家の近所の奥さんがこの病気で亡くなった。友達に一人、大学の後輩に一人患者がいたが、亡くなったケースは身近では初めてだったので、G先生の容態が気になりだした。


4年前、私が大学院に舞い戻ったのは今度こそG先生に師事できると思ったからだ。G先生は今や出世とともにK教授と名前も改められているが、私の印象では今でも黒板消しに向かって語るG先生である。
私の修論の主査ははじめアル中の哲学者K先生だったのだが、退官され我々は「反対派」で芸術学のK-1先生に丸投げされてしまった。哲学にはG先生がいたが、まだ助教授だったのだ。

最後まであまり興味を持てなかったとは言え、後年芸術学の仕事を世話してくださったり、K-1先生は教育者としては本当に立派だった。しかし、若きヘーゲル(会った事ないが)みたいな変てこなG先生に私は大変惹かれていた。

K-1先生には申し訳ないが、不本意な修論を投げつけて逃げ出す前に、私はG先生の研究室を訪ねて「分析哲学をしている方を紹介してください」と不遜にもお願いした。
すると先生は東北と京都に友達がいるがどちらがいいか?と言われた。G先生は京都大学だし仙台は寒そうだから京都と答えた。
「頼んでおくから潜りで勉強するといい。寝食を忘れるのは、あなた得意でしょ」と先生はふふっと笑って言われた。

これまた恩知らずにも、寝食を忘れて勉強しなかった私はそののち自滅してしまうのだが、来る者は拒まず、探求したい奴はすればいい、研究に資格は関係ないというG先生の態度は研究者として立派だったと思う。

G先生はまた、恥も外聞もなく舞い戻った私に対しても、昔と同じく「やりたいようにおやりなさい」とニコニコしておられた。
だが、G先生はニコニコしているばかりではない。ああしろこうしろとは決して言わないが、学生が愚かな事をやっていたり、自分の気に入らない著者の受け売りなんかをしていると、恐ろしい勢いでそれは執拗な追究をする。それこそ相手が泣いて逃げ出すまでやる。大人げないなあ、と思うくらいである。
しかし私などに対しては昔から体の良い放任だ。私などどうでもいいんだろうな、と思うくらいだが、時々報告会を聞いて「やはりあなたは放任していて良かった」と笑って言われるとデヘへ、と嬉しくなって大層励みになるのだった。

G先生は大学時代は学生運動をしていたらしいが、嫌になって琵琶湖の周りの畑を借りて自給自足生活をしたり、新聞記者を目指したりもした。紆余曲折ののち私たちの講師として現れた。
助教授になった年、友達と入った喫茶店でG先生とK-1先生の密会?を目撃。G先生は私の主査K先生の京大の後輩だが、K先生は東大出のK-1先生と仲が良くない。そっと聴いているとG先生「私もやっと野心が出てきましたよ」なんて言っていた。
確かにG先生はK先生を尊重して奉っていたが、個人的には距離をおいておられた気がする。何しろK先生はアナーキーな飲んべえだから、単車乗りで座禅と散策を好むG先生はあまり付き合いたくはなかっただろう。
とは言えG先生も湖畔の合宿で泥酔して学生と単車競争すると言い張って出ていき、結局溝に落ちて奥様が身柄を引き取りに来られるということもあった。これはG先生の数少ない羽目外しだろうと思う。

また、別の年の島での合宿で宴会の途中トイレに行くと、男子トイレでゲーゲーやっている音がする。ややあってG先生が出てきた。私も同じ事をしに行くつもりだったから少し親近感を覚えた。が、ブルボン王朝貴族ならいざ知らず今の男性にもこういう事をする人がいるのかとちょっと驚いた。

何とか論文ができたなら、G先生の単車に乗せて下さいと頼もうかと思っていた。多分「愛する人しか乗せない。ふふっ」とか断られるだろうが。
いや、「貸してあげるから自分で乗りなさい」と言われるかな。何にしろ私の励みであるから快復していただきたい。

2010/08/26(Thu) 22:59  コメント(0)

◆帰ってきた人 

遠い昔になってしまい、普段は忘れてしまっているが、時々思い出すと気になってしょうがない事がある。今は、うん10年前にフィリピンから帰ってきたタオさんの事が気になっている。
タオさんは旧日本軍の兵士で、あの頃世間で騒がれた横井さん達のように終戦後も日本に帰れないままフィリピンに留まっていたのだ。その人がいよいよ帰ってくる!わが村のヨコイさんだ!ということで大騒ぎだった。我々子供は日の丸の旗を持って、大人は正装して村の目抜通りの広場で歓迎式典が行われた。
現れたタオさんは私には全く外国人のように見えた。背が高かったのもあるが日本語が通じないらしかったからだ。地元の中学校の英語の先生が通訳をしていた。へったくそだなあ、と子供心にも思ったのをよく憶えている。

しかし、なぜ英語?と今は不思議でならないのだ。出征するまでほぼ20年間日本語を話していた人が、30年間使わないと忘れるものなのか?

ブラジル移民の親戚は日本に来るとそこら辺のおじさんと変わらない広島弁で話す。けれど、彼らはブラジルでも日本語を話せる環境にあるからタオさんの場合とは全く違う。

その言語で話しはじめ、その言語で育った人が、数10年で本当に話せなくなるのだろうか。自分の経験では全く想像できないのでうーん、と頭をかかえる。

タオさんはその後、村には住まなかった。今何処にいらっしゃるか、ご存命かどうかも判らない。

2010/08/18(Wed) 21:38  コメント(0)

◆優しい人 

私のパソコンの壁紙は昭和7年頃の父達の写真だ。「子供連中」と祖父が画面の端にメモしている。
向かって左から末弟である赤ちゃんを抱いた妹、長兄、一人でお座りできるくらいの中の弟、そして父である。長兄と父は小学校の制服、妹と赤ちゃん二人は晴れ着。祖父手書きの屏風の前に勢揃いしている。やがてニューギニアで戦死する長兄も満面で笑っているし、お座りした赤ちゃんがそっくり返りそうに大きな口を開けてご機嫌だし、リラックスした子供連中の様子が好きなので長いこと壁紙にしている。

仕事中ふと画面を見ていて気付いたが、父はちょっと乗り出して斜め前でお座りして笑っている弟を左手で支えているのだった。他の写真を見ても大抵父が弟妹を抱いたり支えたりしている。悪ガキだったらしいが意外と優しかったんだな。
そう言えば、我々が小さい頃もやはり父はよく面倒をみてくれたらしい。思えば根気良く遊んでくれた。じゃれついて叱られた事はない。
車の運転をしていて少し急ブレーキになるときは、さっと左手を出して助手席の者がダッシュボードにぶちあたらないよう支えてくれた。台所を子供達が走り回っていると、頭を打たないようにテーブルの角を手のひらで包んでいた。

そんなこんなを思い出して、優しい人であったと今更ながら思う。しかし愛情深い人、というのとは違う。
一言で言えば、好き嫌いに関わりなく優しくすべき相手に優しかったのである。ある意味誰にでも優しかった。お宮に寝泊まりする浮浪者にも、癌で死んだ猫にも、家では悪口三昧の同僚にも、自分の子供達にも、同じように優しかった。

だから優しくした相手を好きだったとは限らない。食べ物ですら、決して食べない鶏肉が嫌いだったわけではなかった!
ややこしい、解らん人だったと母は今も嘆息する。確かに、男女間ではこういう優しさは時に恨めしいだろうとは思う。

2010/07/11(Sun) 19:14  コメント(0)

◆いつかいた人 

職場が危ない。一人、また一人と病が明らかになって仕事が回らなくなるのではないかと上から下まで心配している。
いかにも頑丈そうなKさんが早退し、二日間休んだ。出てきたが明らかに顔色が悪い。身体的な不調だけではないらしい。この人が抜けた穴をうめるために奔走していたFさんが昨日突然壊れた。大声で喚きながら机をファイルでバンバン叩き続ける。周りは気づかぬふりをしていた。後でトイレで会った人が「びっくりしたでしょう?」と言った。Fさんも昨年心の病で休職していたという。まだ叩いたり喚いたりしているうちはよいが、そのうち黙ってしまったらいけないのだそうだ。
私はあまりおどろかなかった。こういう人、いつかいた。職場にも自分の家にも…そして2ヶ月に
しかしFさんの事を私に話したAさんは私が就任する5日前の会議で大泣きしたらしい。この人も昨年休職していたのである。
Fさんに自分が代わります、と申し出るやさしいOさんも二年前は自分が精神的に参って大変だったという。
小さい職場では同病相憐れみながら力を合わせるしかない。けれど、そんな時みんなのテンションが変に高いのはお祭りの前夜祭みたいでもある。

2010/06/10(Thu) 21:51  コメント(0)

◆おとなしい人 

先週末、実家に行ったら例によって母の容赦ないリクエストにより吉和のウッドワン美術館に連れて行かされた。そこに行くには、今来たばかりの道を引き返さないといけないわけで、小一時間かかる道のりを、この日は四回通ったのである。母と別れて走り出した四回めは、もう目をつぶって運転したいくらいであった。
ところが、途中で大変なことを思いだしたのだ。あまりにも疲れていたため、実家を出る際、父の社に挨拶していなかったことを。「御免!」とそのまま山道を走り続けようとしたが駄目だ。スッキリしないので引き返す。そうして、あの家の前を結局六回その日通ったのだった。
その日、一つ上の学年だったあの家の次男は加計の病院で亡くなった。それを知ったのは二三日後母と電話で話した時だった。
目が丸くて、アンパンマンみたいな赤ら顔の少年だったところまでしか記憶にない。同じ地区だから、大人になってからも地区の作業や祭や葬式などで何回か見かけたはずだが、あまり記憶にない。多分、昔と変わらない赤ら顔だったのだろう。母に至っては、自分が小学校1年から3年までその人の担任だったことを、通夜手伝に行った頃に初めて思いだしたらしい。「おとなしい、やさしい子じゃったから」と、言い訳のように言っていた。
家からの出棺の時、ひっくり返したようなどしゃ降りで「あんなにおとなしい子だのに、やはり家が名残惜しいのか」と母は思ったという。ただし、雨は次第に落ち着き、葬儀が終わる頃には晴れ間も見えたらしい。
母は葬儀会場には行かず、その家の留守番役だった。もうひとりの留守番役のお婆さんと掃除や片付けをしていたのだが、ふと壁に飾られた古い色紙を見つけた。それはうちの父がその家の祭りをした時に描いたものだった。父は祭りを頼まれると、苦手な祝詞作文に取り組み、それが終わると、まだ二階に籠ってちょっと愉しげに色紙にお宮の絵とその家に合う言葉を描いていたという。
だいぶ昔に差し上げたはずのその色紙を見つけたことが、母にはとりわけ感慨深かったようだ。
「ちゃん」付けで呼んでいた頃しか思い出せないので、母がいうほどおとなしい人だったかどうかすらわからない。だが、病状がいよいよ良くないとわかった時、年取ったお母さんに「しわい時は畑が荒れてもええと思うよ。無理しんさんな」と言ったという話からしても、優しい息子だったのだろう。
葬儀に行った姉によると同級生その他が沢山参列し、弔辞を述べる者も泣く、聴く者も泣く、あげくに司会者も間違うで「葬式になりゃせんかった」ということだった。

2010/05/23(Sun) 13:31  コメント(0)

◆A型のひと 

スーパーに勤めていた頃、同僚に連れられて踏切の側の喫茶店に行った。そこは売り場のマネージャーの彼女の店だった。マネージャーは単身赴任だったから所謂現地妻みたいなものだ。マネージャーより歳上で四十代前半だが、もう孫がいる。しかし、とてもその様には見えない。お世辞の上手な私が本気で「高校生に見えますよ!」と言ったくらいだ。
大変明るい人で、明るい人にありがちな空間恐怖症的な喧しさにはちょっと閉口していた。しかしまた、喧しい人にありがちな「好い人なんだろうがな、ごめんね」と申し訳ない気にさせる人でもあった。
血液型占いに凝っているらしく私も訊かれた。O型っす、と言ったら「あなたは絶対私を好きになるわよ!」と自信満々に言う。O型はA型に容易に支配されるのだそうだ。そうすか〜、とニコニコ笑いながら困ったなと思っていた。好い人なんだろうがな、ごめんね、絶対好きになると言われて好きになれるほど几帳面じゃない。
という訳で、血液型であれこれ言われていると、この人の事を思い出す。そのスーパーはやがて閉店してしまい、マネージャーは去って行ったようだが、喫茶店はちゃんと続いている。踏切を渡る時ちらっと見ると、あの人が餌をやっている野良猫達が店先にごろごろしていたりする。
あれ?結局いつまでも気にしているところを見ると、あの人が言ったこともまるきり当たってなくもないのだろうか。どうもA型の女性には気を遣うことが多い気がする。「あんまり好きじゃなくてすみません…」という負い目から、変に親切にしてしまう。これもまた支配されていると言えるのだろうか。

2010/04/01(Thu) 17:41  コメント(0)

◆バスの運転手さん 

郷里のバスの元運転手さんが亡くなったと、母から聞いた。奥さんが亡くなってまだ一月くらいだ。元運転手さんは私の同級生のお父さんである。
この人のことはその息子と同級生になる以前、ずっと小さい頃から知っていた。小学校の隣にバスの車庫があった。運転手さんは朝早く自家用車で来てバスに乗り、夕方自家用車で帰って行く。この人の自家用車は、黒い国産の旧車で私には大変格好良く思えた。夕方決まった時間にこの黒い旧車は家路を辿る。その姿を一瞬見るために橋の上に立って待ち構えたものだ。診療所前の三叉路を通過する一瞬だけ、橋の上から見えるのだ。
やがてバスに乗るようになって運転手さんの顔と名前を知った。中学校で運転手さんの三男と同級生になった。三男は瓜実顔に青みがかった白目のバンビみたいな少年だった。次男はもう少しがっちりしたO脚の野球少年だった。
中学校の三年間、三男とはよく遊びよく喧嘩した。運転手さんの息子だから本当は好きだったのだが、譲れない意見の相違もあった。某政党員であるお父さんの影響でか、彼は素朴を愛する少年だった。私の母は、村では有名なファッショナブルな教員だったので、「お前の母さん、派手で化粧臭い」と批判するのである。私は「化粧のどこが悪いんか。働く為にきちんとした格好しとるだけだ。」などと言い返すがすっきりしない。
さらに悪いことに、中学校には柔道だけが取り柄でノンポリの権化である私の父がいた。我々の若い担任は元学生運動家で、まったく父とは馬が合わなかった。そして運転手さんと担任の先生は仲が良かったから、父に関する批判も三男の口からしょっちゅう聞くことになった。私は何とか運転手さん一家側の仲間になりたかったから、次第に父母への批判を聞き流すようになった。「自分の価値観を捨てて彼らの気に入る素朴な農婦人を目指そうか」、「いや卑屈になってはならない、自分でもっと世の中を知り、考えるべきだ。」などと自問自答する日々だった。
運転手さんの家は、中学校から二キロくらいの山裾にある茅葺きの農家だ。当時の私の密かな希望は、透明人間になってあの家の中に入り、運転手さん一家の暮らしの一部始終を見ることだった。
高校は次男が行っている広島市内の学校を受けた。勿論次男の近くにいたいがためである。もっとも、いざ高校に入って市内に暮らし世界が拡がるにつれ、次第に運転手さん一家のことはどうでもよくなっていった。
中学校で仲良しだった女の子が三男と結婚した。結婚式に招待された時の私は、目についた物を何でも持って質屋に通うような極悪な学生だった。親に都合をつけてもらった祝儀から札を抜き取り、五千円にすり替えて平気で受付に出して、知らぬ顔でスピーチまでして帰った。(後に自分の結婚式で彼らからきっちり五千円頂き、不審に思った母に真相を究明され大変叱られた)
運転手さんはその後地元の議員となった。茅葺き屋根は綺麗に葺き替えられた。三男は猛反対していた原子力発電所に勤めて着実に出世していった。何でも「俺は原発を見張る為に入社したんだ」そうである。
私の父の葬儀に際してはちゃんと相場の玉串料をくれた。だから、今回私もちゃんと相場の香典を持って行かなくてはならない。あいにく葬儀は知らない間に終わってしまったから、バスの運転手をして家にいるらしい次男に渡しに行かなくてはならない。一度に両親を亡くしては、当分人に会いたくないかも知れない。だからもう少ししてからにしよう、と先のばしにしている。
かつて透明人間になってでも入りたかった憧れの家に、初めて行くのがこのような用向きだ。

2010/03/08(Mon) 00:50  コメント(0)

◆匂いの無い人 

私は視力も弱いし聞き間違えもするが、嗅覚には自信がある。例えば、自分の留守中に誰かが出入りしていた時、ドアを開けた瞬間の匂いで解る。子供の頃はよく寝込んでいたが、そういう時は身体の内部でおこる、熱がでる匂いというので解ったのだ。この世にいない人の匂いがふとする時もある。そんなこんなは、匂いが記憶を喚起するからなのかもしれない。
かつて、「匂いの無い人間になりたい」と言っていた先輩がいた。大層かっこいい人がジャズのサークルにいるよ、と友達に誘われてジャズに全く興味ないにも関わらずサークルに入った。本当にミーハーな私であった。
中性的なルックスもなかなかだったが、博識でフットワークが軽いところが格好良い。田舎者の私は、なんでそんなにいろいろ知っているんですか?とズバリ訊いたことがある。雑誌をいろいろ見てたらこのくらいの知ったかぶりは簡単だよ、等とクールに答えるところもまた格好良く思えた。
この先輩の下宿は私のアパートの近所だったから、時々行き来していた。雨の夜コンコンとドアが鳴って、「雨の訪問者です」等と現れる。レコードを持ってきて聞かせてくれたり、とりとめのない洒落た話を聞かせてくれたり深夜まで、時には朝まで話し込んで行く。うちに来るのは大抵どこかからの帰りだったり、どこかからどこかへの中休みだったりするらしく、その神出鬼没ぶりが大変スマートに思えたものだ。
ある朝帰る時、一緒に階段を降りていると踊り場で私を「よいしょ」と持ち上げて外を見せてくれた。結構ドキドキしたのだが、平静を装おった。何しろクールな先輩は私の目標だったのだから。
私は素敵な異性と出合ってもゲットすべき獲物ではなく、自分がなりたい理想像として見てしまう。これでは恋愛モードには到底なれない。男同士と変わらないのだから。
というわけで、無駄にドキドキしているうちに先輩は卒業してさっさとトレンディな広告会社に就職して東京に行ってしまった。
数年後、出張でやってきて広島城で待ち合わせしたことがある。素朴に憧れていた頃なら天にも昇る心地だっただろうが、感激は全く無かった。さらに数年後、東京に住んでいた頃偶然何かのライブで出会った。結婚してちょっとオジサンになっていたのだが、がっかりすらしなかった。
この人の表象のうち一番魅力的だった神出鬼没性は既に私自身のものとなり、その意味で私はこの人を自分の内にしまい込んだ。したがってリアルなこの人がどうであろうともう関係無かったのだ。
確かにこの人の匂いというものは私の嗅覚を持ってしてもつかめなかった。記憶においても無味無臭のまま。その辺はあっぱれスマートな人であった。

2010/03/03(Wed) 21:49  コメント(0)

◆信仰の光 

数年前のこの頃、物凄く絶望的な気持ちで駐車場に車をおき西日の中を家に向かって歩いていた。つんのめる位の落胆だったがかろうじて普通に歩いていた。道路脇に赤い軽自動車が止まっていて、よっこいしょと出てきた老夫婦がよろよろ私の前を歩き出した。と思ったら振り向いて、「よかったらこれを読んで下さい」と小さいパンフレットを渡してきた。近所の宗教団体のものだ。どうも、と頂いて二人を見ると、しわしわの笑顔が西日に照らされて何とも有難い感じだ。ああ、こういった時に人は信仰に入ろうと思うのだろう、と考えながら笑い返した。二人はそれから楽しそうに、伝道に回る道筋を相談しつつよろよろと消えて行った。
パンフレットは結局読んでいないし、勿論それで信者になったりはしなかったが、あの光輝く老夫婦の顔は確かに少し私の絶望を小さくしてくれた。

2010/01/28(Thu) 00:17  コメント(0)

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