きら星

どこかで会った人びと
◆野ばらの咲く家 

たとえば源氏物語に出てくるような通い婚が自分の理想だった。現代ではちょっと間違うと二号さんだ。しかしそれはあくまでも嫁入り婚が当たり前な世の中だから、一つ屋根の下にいる方が一号で、別邸で暮らして訪れを待つ方が二号と思われるわけだ。

二号さんにはあまり魅力は感じない。知り合いに「誰かの二号さんである女性が好き」という変な奴もいるが、私にはそういう趣味はない。

以前、付き合っていた彼には長いこと通う年上の女の人がいた。恋人というわけでもないらしかった。彼はその女の人の紹介である女子高生の家庭教師をしていたが、可愛い高校生の事を好きになり、だんだん年上の女の人の元を訪ねる事が減っていった。彼女はある日手首を切って死にかけた。彼の訪れが遠のいたのが原因かどうかはわからない。

という話を付き合っている彼から聞いた私は例によって「いいなあ!!」と思ったわけである。「いいなあ!!年上の女の人の家に通うなんて」

その家は広島のデルタの南、海に近い地区にある市営住宅で、入口に野ばらの藪があるという。それを頼りに何回かそれらしい住宅地を夕方歩きまわったものだ。野ばらの藪がある古ぼけた家は幾つもあった。一番趣のある家を定めて何回か通った。頭の上を蝙蝠がブンブン飛んでいた。

こういう家の中で恋しい人を待ち続けるというのはどんなものだろう。人を待ち続けるというのは大変な事だ。それができるというのはやはり特別な能力なのである。そういう人に一度なってみたいものだと思った。ただそれにはこの自分では難しいというのは解っている。一週間くらい魂を入れ替えてみたいと思ったのである。


必ずまた来ると約束したのに二度と現れない相手を待ち続けて死んでしまった女が幻となって現れたり、鬼になって災いをなしたりという話は昔からよくある。大抵朝になって屋敷だと思ったのは廃墟でまわりには白骨が散らばっていた…ということになるわけだが、男がなぜ何年も訪れなかったかといえば「忘れていた」という信じられない理由だったりする。妙にそれに納得する私である。

私は人が通って来るほどじっとしていられない質なので、結局自分がうろうろ通う事になる。通う方は何だかんだ言って気楽なのだ。行って拒まれれば悲しいが、気を取り直して他所に行けば良いのである。たとえ何処に行っても拒まれたとしても、夜はそういう情けない人間をも包みこんでくれる。一晩中歩き続ければ良いのである。

それに対して誰かに通ってもらおうと思えば、大変な努力が必要になる。まず留守をしたら駄目だからじっとしていなくてはならない。ここにいるという事を発信して惹き付けなくてはならない。また次も来てもらうには気に入られなくてはならない。

つまりは、いわゆる魅力というものを分かりやすい形で常に発しないと訪れる人は無いというわけだ。


世の中にはいつも其処にいて、思い出した時にいつでも立ち寄れる魅力的な女性が沢山いる。平和大通りの画廊の女の人がそんな感じだった。広島に帰って来てふらっと寄るとまるで昨日も会っていたみたいに自然に迎えてくれた。要はどっしりしているのだ。だからといって所帯じみているのでもなくいつも美しい。そういう人はきっと訪れる人も絶えないだろう。

ところが私はどっちかというと魅力的で人気のある人はあまり面白いと思わない。男も女もなんか、性格が悪かったり変だったり、世の中から打ち捨てられているような人の所に脚が向くのである。一つ屋根の下にはとても暮らしたいとは思えないが時々行って嫌がらせでもしてやろう、と思える相手とはなかなか縁が深く、そんな一人が結局隣の長屋にいて今も通い合い続けている…

2012/06/01(Fri) 22:42  コメント(0)

◆羨ましい人 

いわゆる普通のお嬢さんというものに弱い。旧家とか金持ちとか有名人の子供などには興味はない。普通のマンションや団地や住宅街に住んでいて親がサラリーマンだったりしそうなお嬢さんが良い。

高校の写真部の男の子が文化祭に出品していた一枚の写真で私は普通のお嬢さんに目覚めたのである。太田川の河原に立っている女の子を撮ったものだった。向こうに橋が見えて流れが湾曲しているのを背景にショートカットの女の子の横顔を大きく撮していた。撮った本人にモデルは誰かと聞いたら「Y女子高の子」と言った。多分彼女なんだろう。私はこの男の子とはわりと仲が良かったのだが、一気に彼が大人に見えてちょっと尊敬の念すら抱いた。そして「いいなあ」と羨ましく思った。そんな普通のお嬢さんと付き合ったりモデルになってもらえるなんて!!

我々の高校にも普通のお嬢さんは勿論いた。私が付き合った男の子の前の彼女というのがそうだった。山手の団地に住んでいて吹奏楽部でサキソフォンを吹いていた。付き合っている頃は二人で河原に行って彼女の練習に付き合ったのだそうだ。「いいなあ」と私は彼を羨ましく思った。


大学の頃付き合ったバイク好きの彼の前の彼女がまた普通のお嬢さんであった。付き合っていた頃バイクの後ろに乗せて行ったという野呂山での写真がまた良かった。彼女は髪が長かったのでヘルメットの後ろからいい感じに流れ出ていた。(私は大抵ヤンキー少年に間違われた)だから私は彼が羨ましかった。いいなあ、普通のお嬢さんを後ろに乗せて走れるなんて。


私の思う普通のお嬢さんには何となく基準があって、まず夏にはノースリーブのワンピースやブラウスを着る。これは私には決してできない事であった。私の叔母は御歳70になる今だって着ていらっしゃるし、母や姉ですら着ていた(だからと言って母や姉は私の思う普通のお嬢さんではありえない)のだが私は駄目だった。腕が太いとか恥ずかしいとかの問題ではない。どうも文化が違うのだ。不思議なことにランニングだと平気なのである…

うちの向かいに神楽君の同級生の家がある。そこのお母さんが歳はくっているが普通のお嬢さんなのである。去年の夏庭先でちらっと見かけたらノースリーブのブラウスを着ていた。夏祭りには浴衣姿で子供のスポーツ少年団の出店を手伝っていた。(その日私はTシャツに頭にタオル巻いて神楽君の太鼓の出店を手伝ってひたすらウィンナーを焼いていた)

そうだ、普通のお嬢さんは普通のお母さん、普通の妻になるのである。

実はその家のお父さんは鬱気味でときどき爆発する。犬を飼いたくて飼っているんじゃない!!とか良くわからない事で怒鳴り散らしている。だからうちにいると、裏の信長さんの怒鳴り声とサンドイッチ状態になる時もある。甚だ迷惑な話ではあるが、私は多少このお父さんが羨ましい。
普通のお嬢さんを普通の妻にしているなんて「いいなあ」と思うのである。

2012/04/13(Fri) 21:17  コメント(0)

◆鬼火のような人 

北九州の舞踏家、Yさんは私にとってカナメのような人だった。実際に話したことは二度くらいしかないのだが。

大学の頃、照れくさいので付き合っているとかカレシ彼女だとか決してお互いに認めなかったA君は、自分でも言う通り、浅はかで女々しい男だった。彼は弟をほとんど溺愛していて、ファンといってもよいくらいだった。弟君はYさんという北九州の舞踏家の所に厄介になっていた。私は結局Yさんが撮ったという写真でしか彼を見た事がない。暗い室内で、また眩しげな屋上で。巻き毛の線の細い色白の、ミソッ歯の美少年だった。私はA君を介していつも『ベニスに死す』のタッジォのような弟君に思いを馳せるようになった。

弟君は咳止め薬を常用していて、それから派生するあらゆる問題にまみれていた。弟君と同じように、Yさんのうちに住んでいたらしいK君も、そういう意味であらゆる問題にまみれていた。K君の話はA君からも聞いていたが、A君とはまるで面識の無いロベスからも聞いた。ロベスの友達が親しかったらしい。K君にも私は一度も会うことはなかった。やがて東京でK君は亡くなった。

K君の追悼ライブが福岡であるというので、私はYさんの舞踏を見るために、ロベスは多分K君の仲間の演奏を見るために一緒に行こうという事になった。追悼だというのに、我々はウキウキと電車の中で1つのウォークマンを方耳ずつで聴いて、曲の当てっこなどしながら向かった。福岡といっても広い。やっと会場の幼稚園を探しあてたとき、高い塀の中から音合わせするギターの音が聞こえて来た。アンプで増幅された単音が三月の空に漂っては消えて行った。このようなものがあるのか、といたく感銘を受けた。それまで聴いた軽音等の世俗的なギターとは全然違って聴こえた。それが私にとって暫く続くギターの音への執着の始まりだった。

その後、東京のK君がいた町に行き、ロベスの友達でK君を知る人のうちに厄介になった。夜、銭湯の帰りにふらふら歩いているとあるアパートの前に出た。「イワンのばか」という飲み屋の近くで、なんとなく趣が気に入ったのだと帰ってからロベスの友達に言うと、どうもK君が住んでいたアパートらしかった。会った事もないまともに顔も知らない既にこの世に無いK君だが、それからもしばらく執着していた。あちこちにK君の痕跡を探しまわっていたがしまいに、ロベスの友達に「お前ら辛気くさい!!」と追い出されてしまった。

10年くらい後に山口に住み始め、友達になった女の人がいた。山口では結構知られた金持ちの一族だったが、大変フワフワした素敵なお嬢さんである。夜行バスで知り合ったフーリガンについてイギリスに渡り、色々酷い目にもあっていたが、微塵も苦労を感じさせない(多分あまり苦にしていないのだろう)ところが気に入った。しばらく付き合っていてわかったが、彼女の昔の恋人はK君のバンドの人だったという。K君は山口県出身だから不思議は無いといえるが。彼女が名門女子高生だった頃フラフラしていて知り合ったらしい。福岡の追悼ライブでギターを弾いていたのが多分彼女の元恋人なのだろう。

こんな感じで、Yさんをカナメにして緩やかな繋がりが広がっているように私には見える。浅はかなA君は顎の無いのが気に入らないがスタイルが好きという女の人と結婚した。この人はロベスの友達のバンド仲間だった。Yさんを見に行こうと思わなければロベスと今一緒にいるかどうか疑わしいし、自分もギターを弾こうとは思わなかっただろう。K君の痕跡のある町に住むこともなかっただろう。

とはいえ、この繋がりの中にある人びとは私にとって謂わば裏の世界なのだ。不思議なくらい、仕事を中心に出来上がっている私の表の世界とは断絶している。ギターの音が漂って来た福岡の幼稚園のような高い塀に囲まれた、ほの暗い世界である。これこそは、私が塀の外で生きていくために必要不可欠な暗がりなのだと思う。

2012/02/09(Thu) 21:57  コメント(0)

◆縁の無い人々 

明らかに縁がない人だがどういうわけか気になり、近付くためなら自分を根本的に変容させてみようかとすら思うが、結局縁のないままであった、という人達がいる。

そもそも自分に縁のある人の方が珍しいのだ。だから、ごく普通の好感度の高い人達はほぼ間違いなく縁の無い人だと思ってよい。

思い出せば、さまざまな意味で自分とかけはなれた人達だったとあらためて思う。

共産党員の息子だった中学校の同級生とその兄。認めてもらうためなら、一生ノーメイクの農婦になってもよいと本気で思った。束の間。

布団屋の息子だった高校の同級生とその兄(兄弟はセットになる傾向大)。商人は一番苦手だが頑張ろう、かわいい看板嫁になろうと思った。束の間。

演劇部で一緒だった真剣演劇少年。私はまるでやる気のない部員だったが、心を入れ替えて女優を目指そうと思った。束の間。

本当はあまり好みではない感じに中性的なルックスの大学の先輩。見ているうちにこれもいいかもと思い出した。同じジャズ喫茶のバイトを続けるため、まるで興味のないジャズをとりあえず聴いた。束の間。

鈴屋の関西出身の店長候補。デスメタル好きというので私も頑張って聴いた。束の間。

シェパードを愛するルナシー好きなフリーター。犬の散歩をする何となくアメリカンなライフスタイルにとりあえず付いて行こうとした。束の間。

公民館活動に情熱をそそぐ医者の卵。ハングルや点字をまなぶ。束の間。

高卒から公務員になった県庁職員。そのハングリーな安定指向が新鮮だったが接点はついに見出だせず。

天から降りて来たかと思う神々しい神楽を舞う少年。神楽をしていないときのだらしなさバカさとのギャップが新鮮だった。一家をあげて支援するが、束の間。

よもや、と思った若いバカな学校の先生。優男だが体育会系の兄貴なところが新鮮だった。かなり執心するが、束の間。


自分を根本的に変えるというのは魅力的な幻想である。多分幻想にしておいたほうが魅力的な幻想。

2011/11/10(Thu) 22:15  コメント(0)

◆スカイライン 

温井ダムの丘の上に結構繁盛している店がある。母が気に入っているのでよく昼飯を食べに行く。

うちから温井までの国道は通行量はさほど多くない。荒涼とした寂しい道である。子供の頃はかなりの区間が砂利道で、それでタイヤをとられて花嫁花婿を乗せた車が転落したような事故もあった。何かと事故の多い路線だ。だがそれも含めて思い出多い路線でもある。だからいつも母は同じような場所で同じような思い出話をする。

まずは、父の最後の車を買ってくれた人のご主人が事故で亡くなったガソリンスタンドの前。「ここは昔から車がパアッと出て危ないんじゃ。田舎者は自分の道路だと思っておる」

その先の曲がり角にある家には私の一つ下の子が嫁いでいたが、つい最近自殺した。「購買の計算をきちっとするいい子じゃった」

王泊ダムには新婚さんをはじめ、沢山の車が転落した。父の友達は谷底の事故車に降りて行って金目の物を採っていた。「まこと嫌らしい奴よ。まだ生きとるわ」

王泊ダムの湖を見下ろすカーブには以前は王泊茶屋というドライブインがあって家族でよく行った。母は特にここからの眺めを気に入っていたのだが今は廃業してしまっている。「もったいないね。湖を見ながらコーヒーを飲むのをお父さんも気に入っとった」

このあたりを王泊というのはその昔、平家の誰やらが隠れていたからだと伝えられている。鴨が越冬に来るのを見て毎年母は喜んでいた。父の最後の車が車高の高い軽自動車だったのは、助手席から湖面がよく見えるからだ。「ああ見えて細かいことに気のきく人じゃった」

王泊ダムには赤い橋が架かっている。そこから湖を見ると、水量の少ないときは砂丘のような島が現れて「ナイル河のようじゃ」行った事もないのに母は言う。「ナイル河クルーズにいっぺん乗ってみたかった。だが物騒になったからの」


この辺りでは何回か、吹雪の夜、進めなくなった車を棄てて一列縦隊で歩いたものだ。「スカートの裏に雪が玉になって幾つもくっついた」

道路は滝山峡のほとりをうねりながら続く。この辺りには時々死体を遺棄しにくる連中がいた。「この上にはもう人里が無いとでも思っとるんだろうか。馬鹿が」そして上流から流れ来る箸を見て人家があると知ったスサノオの命の話になる。

風光明媚な所ではある。先日はトンネルとトンネルの間の渓谷がよく見える所で三脚をたてているカメラマンがいた。通りすぎたあと、「あそこら辺で車を止めようとは、ましてや写真を撮ろうとは思わんね。何が写るかわかりゃせん」

カーブする路面を眠気覚ましだか何だか、わざと凸凹にしてある所がある。そこを通るとき母は必ずバイクで転落して死んだ若い高校教師の話をする。

彼は母親と二人暮らしだった。母親は教員を目指す息子のために知り合いから借金をした。晴れて教員に採用された息子は初めての給料が出るとすぐ母親の借金を返しに行った。金を貸したのは飲食店の人だった。バイクで来て借金を返し、帰ろうとする息子はゆで玉子とビールをすすめられた。強くすすめられて少しだけ飲んだ彼は、バイクで帰途についたが、滝山峡の凸凹のカーブで運転を誤り、ガードレールを飛び越えて転落し亡くなった。

今ほど飲むな飲ませるなと厳しい時代ではなかったとはいえ、「あの婆さん意地悪でわざと飲ませたんよ。あそこの家に教員なんかなれる者は一人もおりゃせんけ」と母はいつも締めくくる。勿論、認知症で正しい認知能力を失った母の申す事であります。

2011/08/09(Tue) 22:39  コメント(0)

◆仏壇の蛇 

実家の集落では毎年7月第一日曜に道の草刈りがある。雨天決行ということでカッパを着て首にタオルを巻き、カッパのフードをかぶった上に日除け帽子をかぶるという重装備で鎌と手箕を抱えて集合した。今年は女の人の参加が少ないのは女性会の旅行と重なったからだ。集ったのは男性的だったり歳をとりすぎていたりで女性会に入っていない三人であった。

雨も上がり、昼前にほぼ作業を終えて三人で集会所の裏に座って休憩していた。水田の向こうに緑の段丘があり、黒い牛が三頭草を食べているのが見える。山との境の森はこんもり暗い。
三人のうちで一番歳の多いSさんは、集落では一目置かれる人である。昔からのしきたりや炊事に通じているので葬式や祭りなどの賄いの指揮をとる。無口でにこりともしないが私などには親切に教えてくれるような人である。Sさんがこんな話をした。

仏壇の中に蛇がいつの間にか住み着いていた。長さは五十センチくらいだが太さが直径八センチはあり、背中は黒く腹は白い。「それ本当に蛇っすか」「おうよ、ツチノコみたいなんでよ」
そのものは太いだけに不器用でよく仏壇の道具をガラガラ落として自分も落ちて来たりする。お供え物をカリカリッと音をたててかじったりもする。

ある日近所の人が来た時、その蛇が玄関にとぐろを巻いているのを見つけて鍬で外に押し出した。それから蛇は現れなかった。
一月くらい経ってSさんが畦道を歩いていると、あの太い蛇が道端で烏にやられて生きているのか死んでいるのか、動かなくなっているのを見つけた。あれあれ、と思いながら通り過ぎ、暫くして戻ってみたら蛇はすでに白骨だけになっていた。

烏が食べてしまったのだろうが、「あれが仏壇に住んどったが、と思うとなんとのう可哀いことよ」

私は農民はだいたい酷いもんだと思っていた。かれらは作物のためには動物を殺し、猫の子供も川に流す。しかし母の子供の頃の話には、牛や馬とひとつ屋根の下で暮らす柔しい農民がでてくる。多分母の村の昔の農民と、今のこの辺の農民とでは事情も気質も違うのだろうと思ってきた。

Sさんに昔の優しい農民の名残を見た気がした。

2011/07/05(Tue) 21:50  コメント(0)

◆ラヴィアンローズ 

月曜日から土曜日までデイサービスに行くようになった母に会いに日曜日に帰省する。
前回あった通帳類が一式なくなったらしい。しかし代わりにずいぶん前になくなって作り替えたはずの通帳が机に置いてある。これはどこにあったのかと問えば「ずっと肌身離さず持っているよ」という。

異臭に気づき、押し入れの暗がりを覗けば、猫のうんこがもう殆ど土みたいになって沢山の山を作っている。やっときれいにしたらまた別室でうんこの山を発見。

掃除を終え、二人で神社に詣り、それから浜田市のコーヒー屋さんに行く。母はつくば万博と内閣制度百年記念のコインを持ってきてくれたので私も五百円出してコーヒーとケーキをいただく。

帰ってきてゴミ出しをして帰路に着く。母はいつもお寺の横の坂道をくだりかけた所まで乗せてくれという。そこで降りて見送ると山を越えて行く私の車を一番長く見送れるのだそうだ。
母に手を降り、暗くなりかけた山道を上り、上りきったら峠をどんどん下っていく。谷底の少し広い道に出て寂しい集落を走っていると、道端の水田で一人働く人影とすれ違う。あれは小学校の同級生だったユリちゃんが、昔と寸分変わらない髪型と背格好で一人前の農家のおかみさんになって作業をしているのだ。
おお、ユリちゃん!と車の中で一人呟き喜び、暗さを増す道をひた走る。

こんな時なんでか、人生というものも悪くないなと思う。

2011/06/06(Mon) 00:53  コメント(0)

◆普通の人 

今日は隣の信長さんを危うくひきかけた。帰って来て駐車しようと車をバックさせていてふと見ると、白髭の信長さんが後ろにぼーっと立っておられた。
降りてから「すみません」というと、信長さんは穏やかに「ビーケアフル」と言うのだった。

うちの長屋に車を停めようとすると、道路でストップし、急いでバックしてブロック塀の中に入らないといけない。躊躇していたら狭いカーブを爆走してくる車にクラクションを鳴らされ腹をたててバカ野郎!!と怒鳴らなくてはならなくなるからだ。
実際怒鳴ったこともあった。朝、うちの前の狭い道路で真っ赤な軽自動車と鉢合わせた。相手がほんの一メートル下がれば離合場所だというのにこいつはクラクションをならしながらどんどん進んで来る。仕方ないから私は十メートルくらい下がってやる。しかしその間もこの野郎は目を剥いてクラクションを鳴らし続けるのである。すれ違う時窓を開けて「バカヤロウッ」と私は怒鳴った。その時ふと見るとちょっと離れた道端で信長さんが小刻みに手を降り、交通整理をしていたのだった。

信長さんは隣の長屋に住む人で、表札に「信長 クリントン」等と書いているが、我々が引っ越してきた時は「ヤマダです」と名乗っていた。今日は私に「マイネームイズ、ヤスヒロモニョモニョ(聞き取り不能)」と言った。もしかしてヤスヒロナカソネだったのだろうか?なぜ今日は英語なのか?それはわからない。

夜となく昼となく、隣からは信長さんの怒鳴り声が響いてくる。誰に向かって、なぜ怒鳴っているのかは不明だ。夕方には祈祷が始まる。何教とも言えない折衷的な祈祷が長いこと長いこと続く。

最近思うのは信長さんは穏やかな人だということだ。以前道端のおばさん達に怒鳴っていたことはあるが、概ね平和主義者のようである。家の中では怒鳴るが外で出会う時は大変穏やかでにこやかである。今日も「快適に暮らすのが一番ですよ」と繰り返し繰り返し呟いておられた。見ず知らずの相手をしょっちゅう罵倒する私の方が乱暴であるのは間違いない。


信長さんは感じが良い隣人とは到底言えないが、嘘偽りがあまりなさそうだし(名前はペンネームだ。私だって印鑑を三種類くらい作っていた)他人を利用するとか金づるにするとか踏み台にするとか、妬むとか足を引っ張るとか傷つけるために意地悪を言うとか、要するに浅ましい魂胆とは縁がなさそうだし、私が知っている中では大変に普通の人だという気がする。

2011/04/27(Wed) 18:45  コメント(1)

◆若い人 

これまで滅多に歳上に恋心をいだいた事がない私には、たとえば学校の先生に恋をするなんて信じられないことである。その手の漫画とかドラマとかは、まあ作り話だから楽しんで見るけれど、自分の身の回りでそんな事が起こるととても気持ちが悪い。
思い出したが、中学時代の同級生が、かつての担任と卒業後に不倫関係になり、先生は離婚、転職なんてこともあった。この先生は確かに大学でたて、長髪サングラスの格好良い人だった。奥さんは歳上の美容師で学生時代に結婚したらしい。二人でグラウンドの向こうの教員住宅に住んでいたので、子供が産まれたとき生徒何人かで訪ねて行ったことがある。
綺麗な奥さんで、部屋には山口百恵の秋桜がかかっていた。その時一緒に行った中には、後に先生と不倫関係になるあの子もいたのだった。

自分がその業界で働きだしてから知ったが、意外と先生と教え子のカップルは多いのだ。しかも、生徒からも同僚からも普通に祝福されていたりする。
だが私は正直な話、羨ましくない。つねに自分より若い人が好きな私であるが、これは羨ましくない。何故だろう。

私は意外と真面目な人間だ。建前をどこまでも通し続ける私からすれば、生徒はみな平等な目で見なくてはならない。たとえ卒業したからといっても生徒だった頃から特別に思っていたのかと、他の子が思うかもしれないから、教え子とどうこうなんてのはだめだ…

だいたい、自分が生徒の頃、先生なんてただただ「キモい」か「気の毒」な存在だった。同僚になってみても悪いけど印象はあまり変わらない。概ね良い人達だとは思うけれど、異性としてのアピールには欠けるのである。

ところが最近異変が起こった。なるほど歳上や近い年代の教員ばかり見てきたが、ここに至って新種に出会ったのである。自分よりたいそう若い同僚というものだ。今までも若い人はいたのだが、大抵落ち着いていて思慮深い、できた「先生」だった。それがまあ今回初めて、気絶しそうなくらい駄目でいい加減で軽い、正に今時の若者が同僚となったのである。
初めて会った時、いきなり私の上履き(木靴みたいなんだが)を褒めてくれた。悪い奴では無さそうだが、とにかくヘラヘラふにゃふにゃしている。
頭のある魚は食べれません、とか、「全然大丈夫です」とか、なんでもネットから疑いも深慮もなしにひいてくるとか…これは全然大丈夫じゃないよ、といつも思って見ていた。

しかも私と同じ高校の出身ときた。こんなぼんくらばかりの学校になったのか、と情けなかったが、まあ憎めない奴なので、後輩として色々庇ってもあげたし、顔を合わせると冗談を言い合うくらいの仲良しではあった。
ある時、給食の配膳中に、ご飯粒が指先について「あー、ままつぶが、ままつぶが」と私が呟いていたら、彼が自分の指先で取ってくれたことがある。その時である。正に指先がビビビ!と痺れたのである。その事に少なからず私はショックを受けた。うわー、こんな事で恋心って芽生えるんだ!というショックである。


もっとも、彼には最初から公言して憚らない大学生の彼女がいる。クリスマスに彼女に自転車を買ってあげたんですよとか、最近彼女が韓流にはまっちゃってとか、ききもしないのにべらべら喋るのだ。きっと私を親戚の伯母さんくらいに思っているのだろう。さびしい気もするが、まあ当たり前のことだ。
私の車が壊れた時、彼は一週間以上毎日送り迎えしてくれた。始めは二三日のつもりだったが、「あと一月くらいいいですよ」と言ってくれたのだ。私を送るので、いつもより早めに堂々と帰られるので都合が良いのだという。早く帰って彼女や友達とインターネットカフェで五時間くらいゲームをするんだそうだ。

彼は若いのでとても良い匂いがする。多分柔軟剤かなんかだろう。朝などは髪を洗ったまま乾かしながら運転してくるのでシャンプーの匂いだろう。部活に出ていた帰り道には、黒いウィンドブレーカーに染み込んだ冬の風の匂いもした。

運転していて対向車にゆずられた時に、おっさん風な律儀な手の挙げかたをするのが私の気に入った。彼は私よりもとても若いのに、そんな時は、父の運転する横に座っていた昔を思い出した。同じ中学校の教員だった父とは、冬の間時々一緒に学校に行っていた。誰かと一緒に通勤通学するなんて何十年ぶりだろうか。おかげで心穏やかな幸せな一週間だった。

行き帰りにくだらない話も、結構深刻な話も色々した。車検の話をしていてふと見ると、彼の車検は丁度三日前にきれていて二人で青ざめたこともあった。

私の車が戻り、オートマ限定の彼の軟弱な軽自動車に別れを告げた。今は意外と清々しい気分である。思えば五月頃、私の車に乗せてやった事があったが、その時彼はしきりにミッションに感心してくれたものだ。そんな事を思い出しながら自分のスバル車を運転していると、私はやはりあのあんぽんたんよりは大人で良かった、と思うのだ。

ただ、生まれ変わったらこんな軽い先生に恋する女の子になるのも悪くはない。

2011/03/07(Mon) 00:16  コメント(0)

◆フ・サナトリウム 

父が死んでから何か父に文句があるたび母が引き合いに出すのはミノルちゃん のことである。ミノルちゃんは父と違って背が高く細身で伊達男だった。ミノルちゃんはいつも片方の肩が上がっていた。肺が悪かったから。ミノルちゃんと母は同じサナトリウムで知り合ったのだ。
瀬戸内海に近い斜面のサナトリウムで、ミノルちゃんは母の病室の前を通るたび「誰もおらんのか?いやいやおった!少しも布団が膨らんどらんから誰もおらんのかと思った」とからかって通るのだった。飄々とした人であった
サナトリウムでは夜中、誰かの断末魔の悲鳴が長いこと響いた。かと思ったらすぐ近くの鉄道ではしょっちゅう飛び込み自殺があった。
生きてそこを出たら結婚しようと言っていた二人は無事に退院をしたのち、広島市内のミノルちゃんの家にしばらく一緒に住んだ。そこにはミノルちゃんの母親と妹がいた。ミノルちゃんの母親は結婚にはっきり反対したわけではない。ある日二人に、一緒に健診を受けて来なさい、二人とも完治していたら結婚しても良いと言ったという。

しかし、結果的に二人は結婚しなかった。なぜかは知らない。ただ、結核病み上がりの二人よりも、ミノルちゃんの妹さんが先に病気で亡くなったようである。
ミノルちゃんは私が後に通う高校の理科の教員だった。家もその高校の塀の南側で、母がいた頃には休憩になると塀を乗り越えて帰ってきてくれたのだという。「優しい人だった」だが結婚しなくて良かった、とも言う。
彼は比較的早く亡くなったから、彼と結婚していたら母は父と一緒になった場合よりさらに数十年早く一人になっていただろうから。(何事も自分中心で悪びれない母である)

母が最後にミノルちゃんを見かけたのは、父と結婚して大家族を抱えていた頃、繁華街の横断歩道でだった。視線を感じてそちらを見るとガードレールに腰掛けた男がいた。随分やせて具合が悪そうだがミノルちゃんだと母は思った。同時に余程健康状態が悪いに違いない、あの格好付けなひとが人通りの多い所でガードレールにとまっているなんて、と思ったという。

その後、「ミノルちゃん、死んだで」と母に告げたのは父である。同じ理科教員だったから(父は理科も社会も英語も柔道も家庭科すら受け持っていて、多分柔道以外どれも怪しかった)情報が早かったわけだ。

母は、やはり妻の昔の恋人のことを気にしていたんだろう、あの人は結構細かいから、とちょっと得意な感じ。

ミノルちゃんと結婚していたら私は生まれていないわけだが、何となくうっすらとした縁を感じる。

私がミノルちゃんが勤めていた高校に行ったのは、偶然私の憧れの先輩がそこに入ったからである。もちろん当時の私はミノルちゃんの事など全く知らない。
テニス部だった私は、グラウンドの南端にあるテニスコートで毎日球拾いに明け暮れていた。夏の暑い午後、球が塀を越えて飛んで行ってしまった。ダッシュで追いかけた私は住宅が並ぶ狭い道で立ち止まった。しんとした道は白く眩しく、喉が渇いてくらくらした。塀を廻らした低い軒のどれかから「カラカラカラ」とコップの氷をかき混ぜる音が聞こえてきた。薄暗い涼しげな屋内でかき混ぜられて氷がくるくるまわるカルピスのコップが蜃気楼のように浮かび、御免ください!!と駆け込みたいのをようよう押さえてボールを拾い、学校の塀の中に駆け戻っていった。

2010/11/23(Tue) 22:52  コメント(0)

次の10件→
[TOPへ]
[カスタマイズ]



©フォレストページ