蛍の光

私が生まれてこのかたほとんどの時間を過ごしてきた「学校」なるものに関する色々です。
◆優しい連中 

雪の中、入ったスーパーで前任校の生徒達に出会った。「先生!」と叫ぶので見たら、随分背が高くなったあの子だった。一緒にいるのは一つ上の女の子と、彼女の母親、そして「付き添い」の女性。

あの子達が市内の中学校を荒らしてまわっているという話を今年度は嫌になるほど聞かされた。メンバーはあの子を含む前任校の2人と、彼らと付き合いのあった他校の3人だ。

前任校の2人とも、素直なところのある、かわいい子なのだ。ただ勉強はしない。文字を書くのも嫌。小学校から「低学力」と言われ、自分でも「オレ、ばかなんよ」「あんぽんたーん!」等と言っていた。

他にも騒がしい子達はいたが、それでも高校にいきたかったり、成績を気にしたり、親にうるさく言われるのをいやがったりするのがブレーキになるようだったが、二人にはそれがない。高校なんか行かない。親は何も言わない。怖いものはない。

彼らは教室で皆の邪魔はしなかった。担任に「頑張る人達の邪魔だけはするな。伏せとけ」と言われたからだ。だいたい寝るか手悪さするかぼーっとしていた。
今年度は殆ど授業に来ず、放課後登校して爆竹を校内あちこちで鳴らしているらしい。

苦い思いでいつも振り返る。私は彼らに何をしただろうか?
授業に参加するように話したり、ノートを用意したり、放課後「5分で良いから」と残して教えたりした。それは少しでも授業に入りやすく、と思ったからだ。しかしそれは大きな間違いだった。彼らは私との「5分間」(伸びることもあった)は楽しそうに過ごした。文字も書いた。「解ると面白いね」とも言った。

しかし授業となると別だ。やはり寝ていた。放課後の5分間授業をやってるからいいだろ!というのだった。

このままでは彼らは同級生と離れる一方であることに遅ればせながら気づいて放課後の授業はやめた。
そして、授業を仕切り直した。今までこの中の何人かを授業中お客様にしていた。これは大変な間違いだったと謝った。これからは全員がこの場で解るようにしたいと宣言した。

しかし、たいした成果をあげることもできず三ヶ月後には任期が終わり、転任してしまった。だがそういう宣言をしてから生徒を見る目も変わった。生徒が実に色々やりたがっている事、そして色々できるという事を知った。

だから学校を変わった今年度はずっと、全員がこの場で解るための授業だ、という雰囲気をつくることに力を注いできた。彼らについての悪い噂を聞くにつけ、もっと早く気付けば良かった、もっと早く手を打てば良かったと後悔する。もちろんそれであの子達が同級生と一緒に勉強したか、授業に参加したか、ということはわかりはしない。
だが、少なくとも彼らは授業中「みんなの邪魔さえしなければよい困った連中」等ではなく「騒がしいこともあるが優しい連中」であると皆が思えるようになれたのではないかと思うのだ。
なぜなら、授業中以外の、つまり普段の彼らは「騒がしいこともあるが優しい連中」だったのだから。

2011/01/07(Fri) 23:21  コメント(0)

◆先生の子供 

学校で生まれ育った私だが、学校がいつもいつも好きだったわけではない。
小学校に上がる頃には山奥の分校巡りの時代が終わり、両親はそれぞれ小中の本校に勤務するようになった。
私は喘息とか「自家中毒」とか風邪とか、とにかくひっきりなしに寝込んでいたので他人よりは学校を休むことが多かった。学校では何故か忘れたがむっつり黙りこんでいて、先生に何か問われても黙っていたらしい。それで、いわゆる「特殊学級」を作って入れるべきだという意見もあったらしい。
同級生にはもう一人知的障害といわれる子がいた。私と2人で「学級」にしよう、という計画だったのだ。
学校で知能検査を受けた時、家に帰って同じ小学校の教員である母からひどく叱られた。私の検査結果が悪かったからで、「お前の知能指数はこれこれで、特殊学級に入るぎりぎりの線だ。職員室で私は大変恥ずかしい思いをした」というのである。そう言われても困る。
大体親が教員でさえなかったら自分の知能指数なんて一生知らずに済むのに、と子供心に恨めしく思ったものである。

「どうせ親2人を合わせて2で割った以上の知能にはならないんだ」と両親は私を見ては嘲るように諦めたように繰り返したものだが、いやそれでは人類の知能はどんどん衰退していくんじゃないか?と子供心に疑問を感じるのだった。

三年生になって、皆で走ってみたら私が一番速かった。これは思いもよらぬことだった。それまで走らせると熱が出るかもしれない、面倒だ、というので体育は見学するのが当たり前になっていたからだ。
速いのは気持ちが良いのでどんどん走るようになった。それとともに少し活発になり、特殊学級にとは言われなくなった。

もう一人の知的障害といわれる子は、記憶力が凄くてテレビのコマーシャルを一日分、滔々と再現してくれる。いつもにこにこして穏やかだし、学級で「記憶力が凄いにこにこした人」というそれなりの位置を占めていた。私もおかげで「むっつりして脚が速い人」というそれなりの位置を占めるようになった。

実は母も、三年生までは何をやらせてもだめで、教師からも同級生からも雑巾のように苛められていたという。それがある時を境に色々な事ができるようになり、終いに首席になり、師範学校も一番で卒業した、という自慢を今や繰り返し繰り返し聞かされる。

私は三年生までの無明の時期も友達とは普通に遊んでいたし、先生からもそれほど酷くは言われなかった。酷かったのは先生である親であった。母はいい気なもので、自分の子供を雑巾のように知能指数コンプレックスになるべく一番罵り苛んだのは御自分だということはすっかり忘れていらっしゃる。

教員の子供は悪くなると言われる所以である。

2010/12/02(Thu) 23:59  コメント(0)

◆脱学校 

イリイチの本を読み返した。以前はマッチョな共同体主義のように思っていたが、それはそうとしても同意できるところもある気がしてきた。
イリイチは校舎は制度化につながるからいらない、ネットワークがあれば良いというのだが、「校舎」が学校への郷愁の引き金になる人にはなかなかこれは受け入れられないだろう。
私は「教場」や「学校」で文字通り育ってきたから、昔住んだ家が懐かしいような調子で校舎が懐かしい。その延長で、高校の部室とか、大学の大講義室裏のベンチや研究室は「ねぐら」であったという意味で懐かしい。
だが、家とかねぐらとかは学校の正当な使い方ではないのかもしれない。そこでそういう部分を除けて自分の「学校」体験を振り返ると、何かを習得したり悟ったり刺激を受けたり…したとき、ほぼ私は校舎外にいたのである。

小学校の頃は家に帰るまでの路上や山中で植物の観察、工作、それからかなり暴力的な体育だ。
家の中では、図書室で岩石や宇宙、世界地図、遺跡、古典文学に浸るのだ。ひそかな楽しみとしては父の週刊新潮で社会勉強を。

気に入った本をひっぱりだして仏間の炬燵で宿題の和歌を捻りだしたり、怪奇小説を書くための資料作りをする。
雑誌は色々教えてくれる。そう言えば、「ナチス」を知ったのも、古代史も、ほとんど父が買って来てくれる漫画月刊誌からである。
母の化粧部屋では「暮らしの手帖」がヨーロッパの生活文化を。ここで焼き付いたポルトガルのタイルの鮮やかさは多分一生忘れないだろう。そして姉の部屋の「リーダースダイジェスト」アルハンブラを見てからは、イベリア半島は必ず詣でなくてはならない聖地になった。
祖母の部屋では古い写真を並べて昔の話、別府の古い天然色絵葉書を繰りながら極楽と地獄の話、勲章を並べては親族と戦争の話が繰返し語られた。

実技としては、アイロンかけの特訓、障子張りや床掃除、風呂の薪割り。畑で鍬や鎌の使い方、建物や井戸、水道管の修理、飲み水を引いている山に入り水路の手入れを習う。

確かに、退屈ということのない日常生活だった。寝る時には「考えること」のテーマを毎晩決めるのだが、例えば時間は速いのか遅いのか、本当にいつも同じ速さなのかとか、実に下らないことが日々浮かんできては順番待ちしているから、おちおち寝てもいられないくらいだった。


私は校舎だけでなく学校で起こる事が大体好きだったから、ある日学校が無くなっていたら残念だったろうが、それでも今あるくらいの教養?は おそらく持ちあわせているだろう。その殆どが学校の外で得られたわけだから。

2010/11/21(Sun) 03:04  コメント(0)

◆土足の学校 

たまたま今の職場には広島出身で、しかも同じ高校を出た人がいる。
思い出すのも面倒臭いと思っていた高校時代だったが、時々二人で「閥」を作ってこの辺の「山口高校同窓生にあらずんば人にあらず」的な風潮に対抗したりしていると、おや不思議。愛校心みたいなものが芽生えてきたではないか。

もっとも若い後輩君の行った頃と私が行った頃とでは、学校の名前まで微妙に違うし制服も選抜方法も校舎も違うので、実はとても同じ高校とは思えない。何より違うのは今のF高校は土足ではないということだ。

田舎から出てきた私には靴で教室に入る、ということが衝撃的だった。これは大変都会的な事だと私には感じられた。無理からぬ事だ。中国山地の天辺に取り残されて数百年になる我々には、土足で家の中に入る西洋人にショックを受けた御先祖達の心性が色濃く残っているのだ。

しかし後輩君は事も無げに言った。「え〜っ!もちろんスリッパですよ。土足ですかあ?汚れるじゃないですか」軟弱な!!と私は憤慨したが、奇麗好きの今時の若者だから仕方ない。
しかし、建物なんてものは奇麗にすればするほど汚れが気になりだすものだ。土足だった頃は、どうせ砂が上がるし汚れるから掃除もざっとはいておしまいだ。たまにモップで水拭きして、年に一度くらいワックスをかける、という感じだったと思う。
スリッパなんかで生活していたら、ちょっと砂が上がっても水がこぼれても気になり、硝子が割れたら大騒ぎだろう。

だいたい、ちょっと汚れたくらいで気にするなんて女々しい。吸殻や硝子の破片を踏みつけて談笑するのが都会的というものではないか。

しかしそんな解釈をして土足を擁護していたのは田舎から出てきた私くらいだったと今思う。同級生の都会っ子達が「スリッパになるといいね」と言うのでショックを受けた事が確かにあった。え〜、土足の方が断然格好いいじゃないか、と私は言ったものだが。

かくしてF高校は、今ではスリッパになって生徒達は奇麗に掃除をしているらしい。

今思うと、どうも私が考える「都会的」とは、何かしら西部劇に出てくる酒場じみたものだったようだ。今日に比べて、イメージの源泉が非常に少なかったということもあるが、つまりはチャンバラと西部劇が好きだったのである。

2010/11/01(Mon) 21:47  コメント(0)

◆くたばれ先公! 

大変久しぶりに、そして奇跡的に再会したとしても一片たりとも懐かしい気持ちなどせず、状況によっては少なくとも殴り倒したいものだと思えるような相手は滅多にいない。(当たり前かもしれない)

自分にはそういう相手が少なくとも2人はいるのだが、名前も顔もはっきり憶えていないのがご愛嬌だ。暴力沙汰を起こす危険は無い。

私は大学院終了後、仏教大通信で教員免許を取った。在学中に一度は取ろうとしたのだが教育原理と行動心理学の講義が嫌で嫌でやめた。その後上洛し、京都大学でもぐり修行するも失敗。道を見失った挙げ句、やはり教員免許を取り採用試験を受けようなどという愚挙に出たのである。

このように動機が後ろ向きな上、いたずらに歳を取っており、しかも長年の尋常でない生活のおかげで人間界に紛れこんだ妖怪のようなぎこちない挙動が災いした私は、教育実習先で憎しみにも似た扱いを受けるのである。

弁明させてもらえるなら、私は全く真面目だったし、礼儀を損なわぬよう気をつけた。仏教大学で散々「君達実習生は邪魔者以外の何物でもないのだから」と言い含められたから、学校の先生方には本当に感謝していた。そう、今だって感謝している。

初日、社会科の先生方に挨拶をした時、一堂しらーっとしたのち長髪の先生が言った。「今年は歓迎会はいらんな」まだ私が目の前にいるうちにである。
その後の色々は思い出すのが面倒なのでもうよすが、実習で私が学んだのは「生徒は優しい。少なくとも先生よりは」という事だった。夜中バイクでバリバリ走り抜けて行った中学生が「先生、頑張れよ!」と言ってくれたのがどんなに嬉しかったことか。

実習中は歯を食いしばって先生方の罵詈雑言を「有り難うございます!」と素直に受け止め頑張った。罵られるのは自分が愚かだからだ。
実習終了後もちろん送別会じみたものはなかった。他の教科の人たちはそれぞれしてもらったらしいのだが。

実習終了後すぐは、まだ洗脳が残っているみたいに自虐的な反省をしては爽やかな思い出と感謝にぼーっと浸っていた。
何年も経って、しらふになるように、あるいは活力が甦るように、私の中に長年忘れていた感情が沸き上がった。生ける屍のような数年間、私の中で怠けていた人間的な熱い怒りの感情である。

くたばれ先公!

そう、今なら間違いなく言えるぞ。おそらくもう定年間近であろう京都市の社会科トライアスロンマッチョ教師野郎と長髪左翼崩れやさマッチョ教師野郎に、見た目穏当な普通の社会人である私が出会うなり怒鳴り付けたらさぞ珍奇だろう。

くたばれ先公!

付言すると、このように怒れる私であったなら、おそらく彼らはあそこまで罵詈雑言並べ陰湿にいじめたりはしなかっただろう。私が人間界に弱味を見せたがために彼らは付け入ったのだ。

2010/10/20(Wed) 22:10  コメント(0)

◆横川の学校 

横川と書き、よこごうと読む。西中国山地の恐羅漢山の中腹にある集落だ。恐羅漢山のスキー場が大きくなって今は大型バスも通れる道がついているが、かつては雪が積もってしまえば歩いて山を越えるしかここへ至る方法はなかった。白粉谷という所を越える時、私を背負っていた母が替わろうという祖母に私を渡した瞬間谷底に滑り落ちるという事もあったらしい。
今、スキーバスも通るようになった内黒峠には碑があるが、遭難事故も多かったのだ。

更に昔、安芸武田氏が滅びた折ここに落ち延びた人達がいたが、やがて追手に見つかり討たれたという。小さな古い五輪墓が残っている。この辺一帯は古くから逃げ込んだとか、行き倒れたとかの伝承や、主の不明な五輪墓が多い。山は深いが意外に往来の激しい所である。
今は大変な僻地なので、こんな所まで探し出すとはと驚かせられるのだが、昔は今より山地は開けていたということかもしれない。


横川には小中一緒の小さな分校があって私はそこに住んでいた。父は中学校、母は小学校を受け持っており、職員は2人だけだった。とはいえ、三歳くらいの私も「これから朝会をします」「暮会をします」と司会をするくらいのお役にたっていた。それ以外の時間は兄さん姉さん達に面倒をみていただいていたらしいが。
教場は小さな川の側にあった。私はさっぱり憶えていないが近くで火事があったらしい。ちょうど父も母も本校に行って自習中で、子供達しか居なかったが、上級生は下級生の手を引き私もおんぶして頂いて全員無事川を渡り避難した。その後父母が慌て飛んで帰って来たのだが、上級生の立派な判断と行動に感謝感激したものだと時々話していた。

恐羅漢山の麓には名勝「三段峡」がある。一昨年母と息子と紅葉の終わり頃行ってみた。猿飛という狭い峡谷を通る渡し舟に乗った時、降りる時母に手を貸してくれた渡し舟の人と少し話したら、我々は横川の者だという。母が教場のことを尋ねると「ああ、先生ですね」と思い出してくださった。教場の裏に住んでいた人で、長年一家で渡し舟をしているのだという。

横川の集落も殆どの家が出て行き、教場も今は建物すら残らない。私のおぼろ気で怪しげな記憶の中に濃い緑に埋もれた小さな学校らしき物と、その前の白い石がごろごろした河原が今もあるけれど、あれが本当の記憶かどうかは知るよしもない。

2010/10/14(Thu) 21:18  コメント(0)

◆脱学校 

夏休みも終わりだから、ちょっと散歩がてらに近所の「しまむら」に。入口付近に茶色い小山ができている。キャーキャーとうるさい。若い女の子達だ。今日私は非番であるから無視して通り抜け店内に入る。しばらくして喧しい連中が雪崩れ込んできた。「ギャー!先生!!ギャハハハハ!!」
昨年度までいた学校の三年生が二人、金髪にそりあげた眉という山姥のような顔でつかみかかってくるのである。残りの五人は一年生らしいから顔は知らない。

しまむらに行くと知っている子によく会う。なぜか大抵派手で喧しい連中である。おそらく、この人達は見かけると声を掛けずにはいられないのだろう。私は決して「学校の先生」とか元「学校の先生」などに声などかけない生徒だったことを思えば有り難いことではある。
去年、卒業生に会って「高校辞めた、バイト決まった」と言われてついつい安い靴下を買ってあげたこともある。「ねえ何か買って〜買って〜!」と喧しいから、「仕方ない。お祝いに靴下を買ってやるから選びな」と言ったらころっと遠慮深くなって百円くらいのを持ってきたっけ。

今日の二人と会った後は、今までになく気分が悪かった。なぜかな、と考えてみたら、彼女達は子分を連れていた手前もあるだろうが、何だか「学校の先生」に対するようなとげのある接し方だった。
たしかに私は彼女達を一昨年担当した元「学校の先生」だが、今は学校も変わっている。こういう場合大抵の子は「昔の先生」か「知ってるおばさん」に話すように寛大になって話してくれるんだが、今日の二人は違う。彼女達は今年になってあまり学校に行かないらしい。そのためか、過去の私も現在の先生達も味噌も糞も彼女達からすると現在進行形の「先生」なんだろう。

彼女達は、別にひどくののしるわけでもないし笑いこけているのだが、眼は笑っていない。私なぞも学校関係者として、彼女達の「学校なるもの」への敵意をぶんぶん押し付けてこられる感じ。
だが、悪いけれどどうしようもない。私が代表して謝っても白々しいし、共感したふりをするのも馬鹿にした話だろう。ましてやわざと悪態ついて興奮させて物を壊させて警察沙汰…というのも余りに意地悪だろう。

かつて私は「警察なるもの」への敵意を一人の警察官に対しぶんぶん押し付けたものだが、それはその警官がたまたま制服を着てたまたま私の前に立ちはだかっているというだけのことからであった。別に「御前は警察の一部だからそうされて当たり前だ」と思ったわけではない。だが、目の前に具体的に一人の警察官しかいないのだった。

では警察なるものへの不満はどうすれば良いか?
冷静に考えれば、警察官に八つ当たりするよりは効果的な事が幾つか出て来たはずだ。考えない私は愚かだった。

学校なるものへの不満はどうすれば良いか、少なくとも非番の下っぱに八つ当たりするよりは効果的な事が考えれば幾つかあるはずだ。
それが解れば子供じゃないとか、解らないから彼女達は苦しんでいるのだ、なんて事は私は思わない。
たしかに子供と大人の解り方は違うかもしれないが、子供だって冷静に考えられるのである。

彼女達のために前の学校で私がやるべきだったがやらなかったこと、またはやるべきではなかったがやってしまったことについてはこの仕事をする限りほぼ毎日考えざるを得ない。そしてものすごく後悔するし申し訳なく思うが、もう滅多に会わない「知ってる子」である彼女達に私ができることは「挨拶」ぐらいである。

2010/08/31(Tue) 23:03  コメント(0)

◆異物 

学年の飲み会に行って「今年は非常勤の人も来ていただいてうれしい」と言われた。へえ、この学校はそうなんだ、と何気なく受け流していたが、はたと気づいた。私以外の非常勤や補助教員は皆さん、夫が市内の教員か教育委員会勤務なのである。この学校がたまたまなのだろうか。
そういえば今年は非常勤の採用が、がくっと減っていた。でも本採用が増えたわけでもない。市内の中学校は年々荒れ具合を増しており、一人一人の教員の負担が増している。増員を求めているがなかなか認められないというぼやきをあちこちで聞いた。

この市は、県は何にお金を使っているんだろう、と不思議になる。先日、国体のために学校で「ボランティア」で花を育てさせよ、というお達しがあった。休日に水やりする教員はタダ働きだ。そんなムシのいいことを頼む前に、学校の授業のためにもっと金を使えば良いのだ。でも使いたくないんだな。
そこで駆り出されたのが教員マダムだな。
前の学校の校長が思わず漏らしたけれど、短い時間で働いてくれる人材が一番理想的、だそうだ。

私を含めて歳をくって一家を支えている臨採教員は雇う方からすれば重荷なのだ。この人々は給料のためにとにかく長時間働きたい。でも常勤臨採は非常勤より人件費がかかりすぎる。非常勤にしても長時間の方を望むから厄介だ。さらに、採用試験を受けるわけではないからある意味恐い物無しだ。


その点、お金のために働くのではない、ボランティア精神に溢れた教員マダムは理想的だ。彼女らなら家に指導教諭がいるから素人より現場に馴染みやすいし、使いやすい。そして扶養の範囲で働きたいから時間数が少ない方を望んでいる。夫の出世に響くし、しがらみも多いから、薄給でもけっして文句を言わないだろう。彼女らは夫のための奥様外交しているようなものだから。

今年初めて組合員の教員に出会った。現場の増員を求める署名を頼まれた。「増員は良いが、我々がお払い箱になるね」と冗談で言ったら、「いやこの県の組合は臨採や非常勤も入れる組合だ。同じ仲間だから我々は非常勤や補助教員の給料を上げるよう求めているんだ」と言っていた。有り難いことではある。だが、肝心の補助教員たちが「いいんですよ、いいんですよ」とタダ働きを嬉々としてやっていたら組合が頑張りなさっても無駄だろう。

2010/06/26(Sat) 18:50  コメント(0)

◆玄武岩 

あまり熱心に受けなかった高校の授業の中で、唯一好きだったのは地学だった。なぜ好きだったかというと、よくわかったからでも先生が面白かったからでもない。また、授業中級友と交流したからでもない。
地学は、それらとまったく無縁の授業だった。先生は退職後の非常勤のお爺さん。授業はやたら難しい。教科書を見たら先生の言っていることの十分の一くらいがわかるくらいだ。しかし教科書なんか見ていたら、あっという間に黒板が意味不明のラテン語で一杯になっている。したがって授業中はラテン語を写すだけで精一杯だ。
おまけに、この先生は高校なんかで教えるのは不本意だと言ってのける。嫌味を言いまくる。どうせ君たち解らないよ、フッフッ…
というわけで、生徒は誰もまともに聞いてはいない。寝るかじっと堪えるか耳を塞いで教科書や参考書で勉強しているか。
私も家で「一人で学べるシグマなんとか」で勉強して初めてわかった。だが、地学の時間はあれはあれで愉しいのだ。ぶつぶつと呪文のような先生の言葉に私は必死で耳を傾け(だが半分も聞き取れない)、黒板に溢れてはさっさと消し去られるラテン語と奇妙な図解を写し(しかし何処から始まったか解らない)、時間はあっという間に経つ。およそ退屈ということのない唯一の授業だった。

卒業後、十年くらいして市内の中学校で臨採をしていたある日、私が留守番している職員室にふらっとこの先生が入ってきた。歳を更にとっておられたが、一目であの地学の先生だとわかった。しかし、なぜここに?何をしに来られたのか?、説明してくださったが例によってホニャホニャと何をおっしゃっているやら聞き取れない。ともかく、自分は◎◎高校の卒業生で地学が好きだった、とお世辞抜きで言った。先生は「ホホッ」と笑った。玄武岩についてちょっと質問したら、職員室の行事黒板に岩石の名前、組成をダーッと書きなぐりながらあの調子で小一時間講義して下さった。そうそうこれが好きだったんだよな、と心で笑いながら、思いがけぬ愉しいひとときだった。

2010/05/06(Thu) 22:22  コメント(0)

◆がっきょう 

通称がっきょう。私の大学にある学校の先生になる人達が行く学部。キャンパスが市内の別の位置にあるから一年生の間くらいしか彼らとの接触はない。
たまたま教養科目で仲良くなった子ががっきょうの人だった。その子を通じて伝わってくるがっきょうの姿に私は震撼させられた。大講義室の講義でも一人で座るのは御法度。すぐ「どうかしたの?」という「手紙」が回ってくる。もちろん昼を一人で食べるのが許されるわけがない。必ずや噂話のネタになる。そして、交友関係に必ず指導が入る。「遊び人ばかりの△学部の人なんかと付き合ったらあなたのためにならんよ。」とがっきょう仲間から言われた、と告げられた私は苦笑いするしかなかった。この子もまた、いちいち言わなくても良いのに報告連絡相談(ほうれんそう)してくれる。私が持っているバッグについて、ああ言われている。私の服装についてこう言われている。私は変人ぶっている、と言われている…。
この子はそんながっきょう仲間から離れていたいらしかった。がっきょう仲間の悪口を言う相手が欲しかったのだろう。
がっきょうでは不思議なことに、遊び人ばかりの△学部では「ださい」こととされている同棲が多いらしかった。
ある夏の晩、私はふと思いたって宇品港から別府行きフェリーに乗った。朝、白々と明ける別府の街にご機嫌で上陸した私はがっきょうの子に電話をした。「別府いいよ!今夜の便であんたもおいでよ!」とハイテンションの私に彼女は、先輩から同棲を迫られて困っている!と泣き声でいうではないか。「お願い今夜うちに来て。一人にしないで!!」と迫られてしぶしぶ着いたばかりの別府から電車を乗りついで帰ってきた。汗だくでへとへとになって彼女の部屋に行くと、ドアを開けた彼女は「ゴメン…やっぱり私…」などともじもじしている。しかも男もののシャツの胸はちょっとはだけ、下は素脚ではないか。部屋には明るい音楽がかかり人の気配が。私は疲れていたので馬鹿野郎!と怒鳴った。このあばずれ!とは多分言わなかったが、そんな気持ちだった。
その後、がっきょうの人とは関わらないできた。がっきょうの恐ろしい学校文化を思うと、教員にだけはなるまい、と思った。したがって在学中には教員免許も取らなかったが、修了後思い直して通信教育で二種免許を取ってしまった…。

2010/05/01(Sat) 17:49  コメント(0)

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