蛍の光

私が生まれてこのかたほとんどの時間を過ごしてきた「学校」なるものに関する色々です。
◆年中無休の時代 

中学校の部活7月と8月の予定を見た。お盆の1週間は休みだがあとは毎日だ。今時、これが当たり前なのだろう。大会もあるから仕方ないのかもしれない。いや、お盆に休みがあるなんてまだまだ甘いと言われるかもしれない。悪いけれど世の中相当いかれているとしか思えない。

先日組合報が送られてきた。部活の休養日を設置するよう教育委員会に要求したと書いてあった。おかしな話だ。一年中部活をするのは教員ではないか。上の命令でやっている様子は全くない。

私が部活を大概にしろと思う理由は色々あるが、まずは教員のためにならないという事。好きで入れ込んでいるなら良いようだが、すべての教員が入れ込めるわけではない。休日に育児や介護をしたい人、しなくてはならない人が、部活に入れ込まないために肩身の狭い思いをしたり、父兄や生徒の信頼を失うのはおかしい。部活は教員の義務ではないはずだ。

そして、自由時間が極少になるのは生徒のためにならないという事。人間には自由時間と自由時間を使う才覚が不可欠だ。これが欠乏し続けると頭で考えなくなる。流されるだけの人間は流される計算はできるし、流される論理的「思考」もできる。しかし計算や論理的思考は機械の方が得意だ。

人間ならではの思考はもっと不確かでだらだらしたものだが、これがなくなると人間はお仕舞いだと思う。思考は内なる自分との対話である。そのためには傍目にはボーッとせざるを得ない。たしかに、内なる対話がないからといって成績が下がったり学力が落ちたり、経済力が落ちたりはしないだろう。だから世の中の人はボーッとしている若者をむしろ危険なものと思うかもしれない。どうせ、ろくな事は考えていないと思うかもしれない。

だが、人間の世界の危機を救うのはそういう類いの思考だと思う。なぜなら内なる自分と対話できる人は、他者とも対話できる。内なる自分を失った人は他者も失うだろう。それは政治的能力を失うという事だ。既にそんな飾り物の議員が沢山いる。分かりやすい二者択一を求めたり、「決められる」政治家に全て委ねようとする有権者が沢山いる。これは人間ならではの思考が衰退している証拠のように思える。


その元凶の一つがスポーツにのぼせ上がった風潮と年中無休の部活だと言うのは、そりゃちょっとあんたこそおかしいね、と内なる私が言っている。

2012/07/10(Tue) 00:50  コメント(0)

◆非情勤 

初任者研修代理でたまに行く学校で、丁度実習生の最終日に行き当たった。この暑いのに黒スーツ姿で直立する実習生に、ベテランの先生が穏やかに説いていた。「教員の仕事は大まかに3つに分けられます。授業に関する事、生徒指導、そして校務分掌で、この3つは大体1:1:1の割合です」

つまり、君はこれまで大変だったろうけどそれは全体の三分の一でしかないのだ、という事を言いたいようだ。「たとえば、授業は一生懸命やるけれど校務分掌をおろそかにするようでは現場の迷惑です」確かに、私のような授業と成績処理しかしないような者は何だか忙しそうな職員室ではちょっと肩身が狭い時がある。指導要領をひもとき授業計画を一生懸命立てたり教材研究を火になってやったりしていると、近くを通りがかった人に「すごいですね、よく研究されますね」と言われる。「経験が浅いものですから、時間がかかってしまいまして…」とか何とかお茶を濁すのが常だが、「呑気に教材研究などしていてすみません」と正直に言うこともある。


「よく勉強されますね」と、あまりしょっちゅう言われると、目障りだからさっさと帰って家でやれという事かとすら思う。それで以前はプロジェクターまで自前で買ったりしたものだ。正規の先生には個人用パソコンが支給される県も多いというのに。
だが私にも学校でやりたい理由がある。コピーをとったり印刷したり、資料を作ったりするには学校が一番だ。大荷物をもって家に帰りたくはない。学校の事をするために何で自分の家の電気代を使わねばならないのかという気もする。

だが、私がしている授業準備や教材研究は最低限のレベルである。すまないが全力を尽くしているとは言い難い。なぜなら私は学校を本業と思っていないし、非常勤というものに教育委員会からも現場からもたいした期待は寄せられていないからである。とはいえ、生徒が私に当たったがために不利益を蒙ってはいけない。だから最低限の事は必ずしようと思っている。


正規の先生達には能力とテクニックがあるから私がするような事を今さらする必要はない。だから授業が三分の一の割合でも良いのだろう。だが、それを踏まえたうえでついつい思ってしまうのだが、いわゆる校務分掌の中で教員が是非ともしなくてはならないことがどれ程あるのだろう。しかも平の教員が。

かの国では、教員は授業のない日は出勤すらせず、時間割も行事の手配も校長がやるというではないか。大体、会計などどうみても事務職の仕事だろう。運動部等も外部のトレーナーの仕事だろう。

一体なぜ日本の学校では先生があそこまでなんでもかんでもやることになっているのか。某学園のように、生徒と一緒に畑作りをしたり給食を作ったりするのはまだ話はわかる。共にすることが教育になると考えることも可能だから。しかし先生が会計したり時間割を組んだりすることが生徒のためになるとは思えない。

教員の仕事を絞って勤務時間を減らし、沢山の事務職を学校に雇えばよいのではないか。教務部とか厚生部とか作ればよいのだ。大学はそうなっているわけだから。しかし色々な事情で今の在り方が良いことになっているのだろう。



私は、チャランポランな分校長と一人の平教員(と、その年老いた母)しかいない学校に生まれ育ったが、誰がやかましく言うわけでもないので呑気な生活だったようだ。そういういい加減な学校が原風景なもので、教員がなんでもかんでも教育できるとは思えない。

教員が校務分掌やら生徒指導やらで長い時間学校に縛り付けられている裏を返せば、生徒も一年中殆どの時間を学校に縛り付けられている。(だからこそ来ない人は徹底的に来ないし、逆に街で悪さをすればよいような人がわざわざ学校に来て悪さする事になるのだろう)教育が人間を一人の公民、おとなにする事だとしたら、学校の中だけで済ませられるわけがない。学校が従順な兵隊を作る所であった時代なら学校内に閉じ込めて脇目もふらせない方が良かったろうが。

学校を託児所にして年中部活をさせておけばまともな大人にしてもらえると考える親がそういう制度を支えているのでもある。
というわけで今のような保護者に学校評価をさせるのは馬鹿げている。むしろ教育を親に大幅に返すべきである。保護者なら子供の教育に責任を負うのは当たり前なのだから。

2012/06/16(Sat) 16:01  コメント(0)

◆我慢しない練習 

卓球部に入って毎日毎日朝から晩まで卓球をするようになった神楽君。そろそろ卓球君と呼ぶべきかと思ったが、土日の午後だけは少し時間がある。そこで「ふう、やれやれ」と一心不乱に面作りに励んでいるのを見ると、これはやはり神楽君は神楽君だと思うのだった。

風呂上がりに「素振りしてみろよ」と言ったら「23番くらいあるらしいけど、まだ八番までしかやってない」と言いながらランニングと半ズボンという姿でやって見せてくれた。ああ!これはまるで伝統芸能ではないか!!

何でだろう。普通の卓球の素振りを教えてもらった通り「一番、二番、三番…」とやっているのだが、私にはどこぞの伝統芸能に見えるぞ。腰のすわり具合だろうか、腕の返しかただろうか、とてもスポーツという感じではない。かといって下手なわけではないと思う。神楽君は、型を覚え身に付けるのは得意なのである。玉が当たるかどうかは全く別の問題だが…

というわけでゲラゲラ笑いながら神楽君の卓球節を見せてもらうのも新鮮で面白い。


それにしても今時の中学生はご苦労である。我々の中学時代には日曜日の練習などなかった。(土曜日は学校があるから部活もあった)長期休暇も練習は前半二週間くらいで、盆から先は休みだった。朝練など試合前くらいしかなかった。試合も年に数回だった。

今はテスト前と正月休み以外、一年中部活のない日はないくらいではないか。テスト前は勉強しなければならないし、部活と勉強以外の事をやる時間と体力は中学生には許されていないかのようだ。余計な事にエネルギーを発散されては困るからこういうシステムになっているのだろうか。

空き時間はちょこちょこあるだろうが、まとまって何かを為すほどではない。これで塾にでも行っていたら、確かにゲームするくらいしか余暇の使い道はなくなるだろう。ゲーム脳だとか嘆く前にゲーム以上の事を計画して実行できる視野と時間と自由を確保してみたらどうだろう。まあそんな視野も、時間と自由を享受する教養も無い大人だらけの世の中だとしたら無駄だろうが。

神楽君は、もう十年近い職人生活が身に付いているのでちょこちょこの空き時間も無駄にはしない。まあ、ゲームでも何でも職人気質や研究者魂でやっていればいいと思う。

一心不乱に遊ぶには知力も体力も使うものだ。部活も塾も無い日曜日を過ごしていた私は、神楽君のように一つの事に打ち込む職人ではなかったが、友達と徒歩や自転車で山越えしたり山小屋や弓矢を作ったり、時にはバスに乗って広島に楽譜やレコードを買いに行ったりもした。

楽器店も書店も近くにあり、美術館や博物館、古い祭りや町並み、名所旧跡もある町に住みながら中学時代に一度も行った事が無いのではもったいない話だ。(それでは社会科が好きになるわけないね)


時間と自由を与えれば確かに代償として悪さをしたり危険な目にあったりの可能性は増えるだろう。だがそれが冒険というものだ。部活と勉強とボランティア活動で清く正しい中学、高校、大学生活を送れば本人も親も先生も満足してすばらしい思い出が出来たと思うかもしれないが、実は退屈なばかりではなく有害ですらある社会のメンバーを一人増やしただけかもしれない。なぜなら彼/彼女は世界の清濁を合わせて楽しむ事に免疫がないからである。

清すぎる川には魚も住めないというではないか。
等と言ったら濁りきったお前こそが有害だと言われるだろうな。

「中学校は我慢をするところだ」と、神楽君の担任の先生は昔自分の担任に言われたそうだ。確かに今の中学校はそういう所だろう。しかし私は中学校で我慢した記憶はあまり無い。むしろ反対で、いかに無謀なチャレンジを我慢せず踏み出すかという胆試しのような日々だった。やろうと思った事を一つも我慢しなかった。

どうか若い皆さんが、つまらぬ事で我慢の練習などせず、無謀な事を我慢しない練習でもすると良いと思う。バカにされるかもしれないが楽しい事は請け合いだ。もっとも、色々覚悟はしておかねばならないが…

2012/06/05(Tue) 22:50  コメント(2)

◆仰げば尊し 

10年近く厄介になった山口市の学校とついにお別れする。それ以前に10年厄介になった短大をくびになり、とにかく生活の立て直しをしなくてはと申し込んだ山口市の補助教員だったが、たまたまある校長の気まぐれのおかげで採用された。その後親しくなった臨時採用の先生の紹介で非常勤に採用してもらいこれまでやってこれたのである。年々少なくなる求人だったが、昨年は組合のエフ先生のおかげでつなぎ止めていただいた。今回は常勤という長年希望し続けた話をいただいたにも関わらず、自分のわがままで断り、遂に仕事を失う。

母の介護で毎週帰郷しなくてはならない上に突然呼び出される事も多いので、今年ばかりは常勤は無理と思った。さらに論文も今年がラストチャンスとなり決着をつけなくてはならない。私には、介護と常勤と論文を全部やってのける力はとてもないと判断した。できるんじゃないの?と言う人もいたが、私は今でもかなりぼろぼろなので無理だと思う。

やらねばならない事もすべてできるとは限らない。できない、と言う事は意気地無しで情けない感じがするから本当は嫌なのだが、やります!!と言って結局駄目になり迷惑をかけるのも意気地無しで情けない事には違いない。

学校では大変勉強になった。いつも外来種のような余計な存在だったのだが、上司も同僚も親切にしてくださった。特に最後の二年間は毎日が楽しいと初めて思えるような学校で過ごさせてもらった。だから最近、これにて学校はお仕舞いにしよう、と思ってもいたのだ。ただ、介護や論文があるといっても経済的な問題は否応なしに残るので、出来たら非常勤をしたいとも思っていた。しかしそんな都合よく行かなくてよかったのだろう。覚悟を決める時が来たという事だ。

学校関係の物は整理して、これから仕事場となる自分の机を整えた。この仕事は苦しいばかりで少しも楽しくはないだろうが、机に向かえば母の事を頭から追い払えることだけが救いだ。

2012/03/23(Fri) 18:38  コメント(0)

◆笑われ千本ノック!! 

先日、勤務先のS中の職員室で何気なく周りの会話を聞いていた。一人の先生が、ある男子生徒の事を評して「あいつ可哀想よの。あれじゃあ高校に行っても先生らに可愛くいじってもらえんで」と言って、周りの先生達も、「そう、うまーくコロコロっといじって貰えないタイプよね」等と相槌を打っている。私は愕然とした。

いじって貰わんでえーわ!!何でいじられにゃあ可哀想なんかい!!と心で叫びながら平静を装おってワープロを打つのでもう心は汗だくであった。

この先生達が善意で言っているのがわかるから尚更恐ろしいのである。私はテレビのバラエティーがあまり好きではないが、それは出てくる芸人!?と呼ばれる人たちがいじられる事を笑わなくては成り立たないような作りになっているからだ。

いじられるとそれを自虐的なパフォーマンスで受け入れたり、わざととぼけたり、とにかく見ている人たちに笑われなくてはならない。でないと場が白けて、お呼びがかからなくなるぞ、とか終わったな、とか脅されてそれがまた見ている人たちの笑いを誘う仕組み。

私はそんな面倒くさい事は嫌いだ。されるのも面倒くさいし、するのも面倒くさいし、見るのも気持ち悪い。職員室に入る時、生徒は教えられた通りに「〇〇先生に御用があります。」と言う。すると〇〇先生はどういうつもりだか知らないが「私は用はありません!!」等と言う。笑いが起こる。私が生徒なら「この無礼者!!教師のブンザイで何言いやがる!!」とドアを蹴りやぶるだろう。

そんな訳だから自分が 学校の生徒だった時、私を「いじる」ような先生はまずいなかった。 試みると悲惨な結果に終わった。家庭科の先生が、あまりにも私が裁縫が下手なので「△△さんは誇り高いからねえ、裁縫なんかできないのかな」等と要らぬ事を言う。私が「ああ棚の上に埃がたまっとります」と憮然として言うと教室がものすごく寒くなった。先生はヒヒ、ヒヒ…と収集のつかない笑いを残して去って行った。

教師のブンザイで何を言うか!というのが正直な気持ちであった。自分の両親も教員なのだが、幸い人にそんな卑屈さを求めるタイプではない。

教師にいじられて、一生懸命反応しようとする生徒は気の毒だ。それは同級生にしつこくいじられて、うまく反応しないと嘲笑われたり非難されたりというのを繰り返すのとかわりない。そういうのイジメと言うんじゃないのか。イジメは無くならないと先生達はしたり顔で言っているが…

いじられるという事は可愛がられるという事だと先生達は言うんだろう。社会で可愛がられる新人になる練習だと言うんだろう。そうだろうが、つまり場の空気を読んで無駄な時間と労力と精神力を磨り減らすのが社会人だと先生達は教えていることになる。身に付くのは卑屈な笑いだけである。

いわゆる頭の良い子の中には、敢えて教師にいじられてあげる、というのもいるが、これもまた大人びたようで結局は卑屈な態度である。いじられキャラだとか言えば聞こえは良いが、この風潮は要するに運動部のシゴキが姿を変えたようなもんだ。合理的ではない。だから嫌いである。

2012/01/15(Sun) 01:43  コメント(0)

◆教員失格 

学校に勤めていると、学校の先生になれる人達というのは、優秀で真面目な人達なんだなとつくづく思う。嫌みではなく、というのも私はヤンキーが母校に帰って良い先生になれるとは思わないたちなので、それはそれで良いと思ってはいる。ただ単に自分がいかに学校向きでないかを思い知らされ、途方にくれるのである。


学校は一つの社会だから、社会の常として成員に学校的振る舞いを要求する。私はどうも昔からこの振る舞いに馴染めない。家に学校の先生が二人いたにも関わらずだめである。先生といっても、二人とも今の先生とは何か違う。そもそも父は先生というより柔道だけ強い(らしい)不品行な孤独な親分だったし、母は猛烈教員だったが、意外とおっちょこちょいでやんちゃな所があった。


不思議に思うこと。学校の先生はなぜ、忘れ物にあんなにこだわるのだろう。忘れ物をすると確かに本人や周りが困るから忘れないにこしたことはないが、忘れまい忘れまいと緊張したって忘れるものは忘れる。

私はよくランドセルを忘れて学校に行ったり帰ったりしたが、忘れ物をしないように重々点検したうえで忘れているのだからどうにもならない。忘れ物というのは気分のたるみとかだらしなさとかが原因でおこるというよりも、ふとした偶然でおこる現象だと私は思う。だから原因であるだらしなさや横着さを矯正したところでおこる時には起こる。

不思議なこと。なぜあんなに提出物にこだわるのだろう。確かに世の中期限内に出さないと不利益をこうむったり迷惑をかけたりする事が多い。しかし、期限内に出さないものにはそれなりの理由があることがある。利益はいらないとか、とにかく面倒臭いとか、どうでもよいとか。大抵否定的な無気力な理由だが、人生に意欲的でないからといって一概に悪いとは限らない。


不思議なこと。「そんなことなら帰れ!!」とか「やめてしまえ!!」と言っておいて相手がいうとおりにしたら怒るのはなぜだろう。素直な相手なら言われた通りにするのが当たり前だ。普段指示に従わないと怒っているなら尚更不思議だ。



不思議なこと。◯◯するぞ、と脅されて「したらー?」などと生意気なくちをたたく生徒に、「すみません」と言っておけばよいのにと嘆息する。何故だろう。◯◯するぞなんて脅迫されてすみませんなどと言う腰抜けは若者ではない。(少なくともギリシャ的には自由人ではない。奴隷だ)それに「したら?」だったら丁寧な方だ。脅迫など卑怯な輩には「してみやがれ」と言うのが普通ではないか。

先生に挑戦的な態度をとるのも同様だ。なににつけ偉そうなものには攻撃したり、無視したり、軽蔑したりして痛い目に遭うのが若者ではないか。人生のはじめからニコニコペコペコしている方が問題だ。



不思議なこと。なぜ生徒が学校の外ではめを外すことを警戒するのか。学校から帰ったあとは家庭の事だ。派手な格好や化粧をしようが、派手な人達と遊ぼうが泊まりに行こうがそれは家庭の方針であって学校の先生には関係ないのではないか。私が今時の中学生なら勿体なくて家になどいられないと思う。勉強などしたこともない格好だけは良い男友達と花火を水平に飛ばして遊んだり、「旅に出ようぜ」と行けるだけ遠くに行くだろう。


不思議なこと。なぜ中学生の多くは学校の周辺をウロウロしていてもっと遠くに行かないのだろう。せっかく若い身体を持っているのに勿体ない話である。


というような事を考えていては良い先生にふさわしい行動がとれるわけがない。

2011/10/31(Mon) 22:38  コメント(0)

◆風の吹く日も雪の日も 

この夏で私の小学校は廃校になったらしい。統合されたわけだ。私が在校していた頃は、分校が二つあった。同級生は15日人いたから、私は複式を経験していない。だが、どんどん子供が減り続け、複式となり、ついに統合となったわけだ。

私の入学式も卒業式も戦前からある古い立派な講堂で行われた。選挙も結婚式も告別式も映画上映も行われるこの講堂こそ、私にとっての小学校だった。校舎は引っ越しや建て替えでコロコロ変わったが、講堂は変わらなかったからだ。

この講堂の舞台下には広い和室の楽屋がある。ここで私は、とにかく持ち物の員数を揃えるという軍隊的な処世術とか、和室の掃除のやり方などをどやされながら学んだ。講堂の入口には石炭(後に石油)置き場があり、腰を痛めず重い物を運ぶやり方や、無駄口をたたかずとにかくやれば仕事はさっさと片付くということを学んだ。

走ると穴が空きそうな危険なフロアでは体育が行われ、皆が無視する分校からの転校生に手を出して引っ込めた私は代表でどやされ、中途半端な同情は単なる保身より質が悪いということを学んだのだった。


毎年の入学式と卒業式では、黒いベルベットのスーツや紋付き袴の母がピアノ伴奏をしたり、卒業証書を黒い盆に載せて緞帳から華々しく現れたものだった。

自分の卒業式もG線上のアリアで始まり、母の伴奏で歌う校歌で終わった。

中学校や高校の校歌など全く憶えていないが、小学校のだけははっきり憶えている。「さ霧が流れ雲白く、山また水も青々と」とか「風の吹く日も雪の日も」とかのフレーズには胸に迫るものがある。

雲に包まれ、鬼くらいしかいないと下界の里びとに思われていた荒れ地にむっつりと代々暮らし、暴風雪の中を前を睨んで這うようにして代々歩いてきた我々の琴線に、ごく単純な言葉でみごとに触れる歌詞だったと思うのだ。

2011/09/22(Thu) 21:51  コメント(0)

◆偉い人の反対はえらそうな人( ケロロ) 

以前補助教員として勤めていた中学校で、ある生徒が言っていた事を思い出す。割と成績の良い彼は体育の教師になりたいと言った。なんで?と尋ねると「学校の中で一番の権力者だから。体育のN先生は教員の中で一番権力持っとる。いつも自分では何もせず他の先生に指図してさせよるじゃん。俺、ああなりたいんよ。」

N先生は中体連の理事とかで、担任は持っていない。保健の授業では「性教育なんかオレ絶対せんで!あんなん家庭科でやりゃええんよ」と威張っている。サッカー部の顧問だが、普段は「N先生は先輩だから逆らえない」という臨採の人に任せている。ただ、生徒指導の時は強面で幅をきかす。
なるほど。言われてみればいい商売よのう、と感心したものだ。生徒は教員をよくみている。権力関係、上下関係に敏感な彼らは、すぐに誰が一番楽をして威張っているかを嗅ぎ付ける。

大体体育の先生が一番で、管理職がエライとは不思議と誰も思っていないようだ。

とはいえ、私は昔から体育の先生はあまり好きではない。

父は中学校の教員で、社会、理科、英語、さらには家庭科、技術、美術、そして「柔道」の先生ではあったが、「体育教師」であった事はない。水泳もスキーも上手いし草野球もやっていたし、運動神経が悪いわけではない。柔道が強いので生徒には一目置かれていたけれど、強面で震え上がらせる感じではなかった。何しろ、ポケットに入れた生卵を忘れてオーバーアクションで語り、潰してだらーっと白身を垂らすような人なのだから。「威張る」という言葉が途方もなく遠い人だった。

父は強いから優しかった。それが通用しない世の中になる頃学校を去り、二度と戻らなかった。

だから私はN先生みたいな体育教師はあの子が何と言おうと、皆が尊敬しようと嫌いなのである。

2011/07/14(Thu) 21:06  コメント(0)

◆誰もいない校舎 

誰もいない廊下で振り返ると、思ったとおりに君が駆けてくる。給食室のシャッターを上げていると、君がドーンと終わりまで押し上げてくれる。配送のおじさんの給食膳をひとり分持てば、君が必ずもうひとり分を持って後ろから来てくれる。

誰もいない体育館で、シートを巻き上げて振り返ると、思ったとおりに君が黙々とシートの束を運んでいる。巻き上げた重いシートと一緒にステージ上によじ登る私を押し上げてくれる。

誰もいない視聴覚室で振り返ると、思ったとおりに君が脚立を持って入って来る。苦労して電灯を取り替える間、私は脚立を押さえていてあげる。


誰もいない階段をゆっくり降りていると、撮ったばかりのカメラを君が覗きこむ。一段一段降りながら、一枚一枚確かめる。踊り場のステンドグラスの前でもっとよく見るために立ち止まり、笑いあう。

オリーブの花が散る畑の坂道で振り返ると、思ったとおりに君が登って来る。今にも落ちて来そうな裏山の岩を見上げて寒くなるまで話をして「じゃあ、また月曜日に」という。


誰もいない夕暮れの前庭で振り返ると、思ったとおりに君の白い車が停まる。私はボンネットによじ登る真似をして笑いあう。


こうして、誰もいない校舎のあちこちに君がいるからつい立ち止まる。風が鳴り落ち、君の姿が見えなくなるまで。

2011/06/01(Wed) 00:36  コメント(0)

◆立派な先生 

これまで自分が生徒として出会った先生を思い出し、好きだったと思えるのはごく僅か一人二人である。好きとは言えないが、感謝している人も僅か一人二人である。好きとは言えないが立派だったと思う人は皆無である。

さて、好きな一人二人、感謝する一人二人の中に女の先生はいない。女の先生に習わなかったわけではないが、今に比べると女の先生は少なかった。私が習ったのは家庭科と体育の先生だけだった。小学校では1年間だけ女の担任だった。それも病気になられたので半年も学校に来られなかった。

女の先生を私はどちらかというとバカにしていた。それはたまたま出会った数少ない彼女らが、たまたまつまらん事を言ったり、ものを知らなかったり、たまたまカッコ悪かったりしたからかもしれない。
だが、一番の理由は家の中にカリスマ的な女の先生がいたからだ。それは自分の母なのだが、私は母をすごく立派なカッコ良い先生だと思っていたから、母と比べたらどの人もみんな駄目に見えてしまうのだ。
なぜ私は母をすごい先生だと思ったのか。一つには父がいつも絶讚していたからである。「お母さんはすごい。なにしろ、心臓に錐を突き立ててキリキリキリともみこんでしまいにトンカチでカーン!と叩き上げるようだと校長連中は言っている。」と、よく語っていた。だが思えばかなり両義的なほめかたではあった。
また、母は地域の家をいつも廻っていた。子供の世話が不十分な家ではお父さんを叱ったり、お母さんに料理や洗濯機の使い方まで教えたりもした。だから地域の人達は家に子供がいる人もいない人も、母の事を先生、先生と尊重してくださった。だが思えばかなり両義的な尊重の仕方ではあった。

そんなこんなで私は母はすごい先生だと思い込んだのである。ただ、子供心にも母は立派な先生だが、親としてはまずいんじゃないかと思ってはいた。こんなに自分の子供の事を解らない、ものすごい自己チューな人がなんで他人の子供の事を解るんだろう、なんで立派な先生なんだろうと疑問に思っていた。
多分家と学校とでは人が違うんだ。また、自分の子供に関しては目が曇るものなんだ。と、納得しようとしてきた。私は数少ない「立派な女の先生」を失いたくはなかったのである。

しかし私がこの人の子供でなく教え子だったとしたら、この人の事をまあまあ好きだったかもしれない。
そして確かに「立派な先生」だと思っただろう。
母は確かに厳しいが、小さな事はぐちゃぐちゃ言わないし、どんな子供でもけっしてバカにしない。叱る時には大変恐いけれど、喜ぶときには自分の事のように喜ぶ。
山火事や、迷子、事故など咄嗟の出来事にも冷静に対処する。悪い事をした子もなじりはしない。でもけっして見捨てはしない。

家で子供に関して悪口やバカにしたような言い方や、好き嫌いを口にしたことはない。自分の子供の前では当たり前だが、父と二人で話している時もそうだった。(大人についてはものすごい辛辣だったが)

確かに、母は子供たちに希望を持っていた。子供たちを信じていた。同業者になって話をするうちに、それは戦前の師範学校の良いところだったのだと思うようになった。随分イメージと違っていたが、母の話を聞くかぎり、戦前の師範学校というところは、意外と子供を支配しようとか支配できるものだとは考えていなかったようだ。

では、手のひらの上で駒を転がすような教師はどこで育てられたのだろう。
私がもっとも嫌いだったのはそういう先生だ。自分の思うような姿に生徒を作り上げようとする、あるいはそれが可能だと思っている。思い上がりもはなはだしい連中だ。
昔、こういうのはだいたい男の先生だった。(今は良くも悪くも男女関係ない)
昔の女の先生はといえば、そんな思い上がりもはなはだしい男の先生に支配される「女子」の延長でしかなかった。だからバカにするしかなかったのである。

母は、そのような思い上がりもはなはだしき男の先生をきつく懲らしめていたし、だらしない女の子先生をきつく叱咤していた。だから父が言うように「キリキリキリ、カーン!」と傷つけられた同僚や上司は多かったろう。

自分が学校に勤めて改めて思うと、昔の自分は確かに狭い目で学校と先生達をみていた。自分の両親とは違うタイプの先生達の苦労は全く評価していなかったが、色々な先生達には色々な良さがあったのだ。今のように同じ職員室で働く相手としてみたら、たいていの先生が「良い人」か「できる人」か「困るけど面白い人」だったのだろうと思える。

それでも、今になってもなお、私は先生には「立派な先生」を求めてしまうのである。好きになれなくても具体的に感謝する事が少なくてもよい。立派な先生とはつまり、立派な大人になるための指針になる人だと思うから。

かつて「立派」だと思い込んだ母の人間としての実態は問題だらけだが、先生としては紛れもなく立派だったと今でも思っている。

2011/04/10(Sun) 12:23  コメント(0)

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