02/07の日記

22:01
雪の家路
---------------
最近Facebookで友達承認した人が実はうちのクラスのB君の母上だった。私は知らなかったが、御母堂は息子から私がFacebook始めたと聞いたらしい。B君との散歩の事やら書いていたのでヒヤッとしたが、まあ悪く書いたわけではないので。
つくづく匿名性の無い明き清き場所の息苦しさを感じるのであった。濁り水が恋しいという感じ。


今日は雪。B君のお母さんが投稿で「おいしいパンを買った。B、早く帰ってこーい!」と書いておられたのが微笑ましかった。こんなに寒い日、帰ったら暖かい部屋と好物があれば、さぞや幸せだろう。また、そう思って帰りを待つのも幸せな事だろう。私には今やそんな幸せは無いし、帰りの雪道で四輪スキーをするのが幸せと言えば幸せだ。

しかし、寒がりのくせに年をとるほどに冬が愛しくなるのは、かつて私にもあった小さな幸せの記憶のためだろう。私の子供時代は、吹雪でホワイトアウトする道を雪をこいでたどり着いた家には誰もいないのが常だった。しかし濡れた物を干し、乾いたものに着替え、炬燵がだんだん温まってくると、雪が降り積もる静けさが大変安らかなものに感じられてくる。そしてキリンレモン(子供だから)を飲みながら父母が浜田から買ってきていた菓子パンを食べたりする至福。(あとで叱られるのだが)

私には帰る家が有り、そこにはキリンレモンや菓子パンがあった。それは、たとえ不在でもそれらを用意したり保守したりしてくれる人々がいたからだ。私が包まれた安らぎはそういう人々が作ってくれた安らぎだった。長い年月の間にそういう人々は居なくなってしまったが、私にはかつてそんな幸せがあったという記憶で今は充分だ。

ついでに言うと、その物質的な幸せの陰に誰かの愛情があったかどうかは大した問題ではない。なぜなら、物質を準備し与え守る事は子供を生かすに欠かせないが、本当に愛しているか大好きかどうかは欠かせないものではないからだ。

前へ|次へ

コメントを書く
日記を書き直す
この日記を削除

[戻る]



©フォレストページ