01/07の日記

12:20
ピリオドの向こう括弧笑い
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今年は初日の出を見に行くという、おそらく初めての行動から始まった。

思えば子供の頃から初詣は深夜、年が明ける時刻、凍結がまだ酷くない時間帯に済ませるのが村の常識であった。そうして帰って若水を取り、寝る。起きたら初日は昇っている。

父が宮司になってからは、母と共に社務所で年明け。宮に詰めている総代さんたちの接待や、参拝の方々に振る舞う甘酒作りをして夜明け前にヨタヨタ家に帰る。起きたら初日は昇っている。

自分が一家を持ってからは実に年越しは楽になった。障子の張り替え畳の裏返しもしなくて良い。(今住んでいる長屋には障子が無い!)大掃除も神楽君などを手足のように使い、私が良しと言えばそれで終わりだ。

お節を一週間前から作ったり、餅をついたり、思えば父母たちはよくやっていたものだ。だんだん来客が減っても母はレベルを落とさなかった。お正月というのは一年の難所であり、横着な私はあまり好きではなかった。やっていると楽しい事もあるのだが、とにかく「たいぎい」(面倒くさい)の一言である。

家にまだ人が住んでいるうちに、正月に帰らなかったのは一回だけである。東京に出奔していて高円寺駅前のマクドナルドで年越しした。一応行方不明状態だったので親不孝だとは思ったが、いやア楽だ、世の中にはこんなに楽な正月もあるんだ、と世界が拡がったのであった。

行事に厳格な母だが、実は正月を観光地の旅館で過ごすのが夢だったらしい。なら、さっさとそうしてくれれば良かったのに、父が宮司になって完全に地元に縛りつけられてしまった。だが、面倒くさいと嫌がる父を叱咤して宮司にさせたのは母である。つくづくご苦労な事である。

一昨年の正月は、その夢をかなえてあげようと、広島の旅館で年越しした。母と我々一家の五人で平和公園横の旅館に泊まった。神楽君は大喜びだった。母はその頃自宅をついに出て地元の老人施設に入って間もない時期だった。幻覚がひどくて無気力な日々をを送っていたので、どこに行ってもあまり楽しそうではなかった。時既に遅し。親孝行したいなら早めにすることだ。


今年は母はグループホームで穏やかな日常を送り、年末年始も無理の無い程度にみんなで何やらして過ごしたようだ。三日に神楽君とロベスをまず実家に降ろして雪掘りさせ、私はグループホームに母を迎えに行った。小一時間後、家に戻り、雪の中で凛々と汗をかいてコーラを飲んでいる二人を拾い、四人でお宮に初詣をした。

あれほど神楽君に会えない事を残念がっていた母だが、めっきり疲れやすくなっていて、珍しい時間を楽しむ余裕はすでに無くしているようだ。これで神楽君にも会わせた。一通りの事はした。残念ながら母を喜ばせたり楽しませてあげる事はすでにできなくなったようだ。私は最後まで親不孝な子供だった。

21世紀の森という、かつての知る人ぞしる山口のこわい名所(私は毎日通勤と称してのぼりくだりしているが)は封鎖されて土塁ができている。その上に八組くらい初日の出を見に来た人々がいた。「つわものどもの夢の跡」から見る初日の出。

ここが封鎖される以前、仕事に疲れて登って来て、初夏の山並と沸き上がる雲を羨望の目で見て「休暇前の雲だなあ」と思った日もあった。昔から逃れたいと思ってきたしがらみが1つ1つ消えていって残り少ない今、それでも私は大して自由ではないと思う。私の知らない世界は実に広い。人から見たらなんていい加減な!という生き方をしているし自分も同感だが、批判を恐れずに言うと「もっといい加減に生きよう」と思った初日の出なのであった。

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