宝絵巻


□堅氷
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助けられなくて、すまなかった――彼はそう言って、涙を流した。

あの出来事は、大好きだった筈の彼までもを、私から奪った。

彼は、あんな男とは違う。分かっているのに、私の心は、彼を拒絶している。



―堅氷―



今まで生きてきた中で最も屈辱的で、辛く苦しかったあの夜は、よく晴れていた。

月が綺麗だったものだから、散歩がてら、お宮様へ夜参り。

物の怪退治に出掛けて行った彼――薬売りさんを想い、無事に帰って来ますように、と両手を合わせた。

彼が帰って来たのは、それから間もなくのことだった。

「雫、変わりなかったか」

戦いで付いた傷の手当てもしないで、帰って来た彼。

待ち焦がれていた筈なのに、私と彼の間の距離が縮まっていくにつれて、嬉しさが薄まり、代わりに恐怖が――私を支配していった。

こわい、その言葉しか思い浮かばない。

「雫……どうした」

涙が溢れてきた。

近づいてくる彼は、誰?

「顔が真っ青だ。具合でも悪いのか」

あの男。あの男が、私に向かって手を伸ばしてくる。

「い……嫌……」

次の瞬間、自分でも信じられない位の、大きな悲鳴が、私の口から出ていた。

「触らないでーっ!」

逃げようとした私を、男は素早く捕まえて――。

そう、あの日、お宮様に行った帰りと同じ。

急病を装い私を呼び寄せた男は、一気に襲い掛かってきた。飢えた狼のように。

地面に倒された私の目に映った月の美しさが、その時ばかりは憎らしかった。

暴れようにも両手は地面に留められ、叫ぼうにも口は塞がれ、せめてもの抵抗は、力一杯、男の下卑た笑いを睨み付けるだけ。

信じたくなかった。知らない男に、辱めを受けたなんて。

「来ないで!触らないで!」

「雫、一体何があったんだ」

抱き締められ動けない私。

喉の奥が詰まったような息苦しさに襲われ、気持ち悪かった。

咳き込む私の背中を、私を抱き締めている男の手が、擦っている。

「雫……落ち着いたか」

聞き覚えのあるその優しい声が、私の目を覚まさせた。

「薬、売り、さん……?」

それが彼だとは分かったけれど、私の体はまだ、震えていた。

「何があった」

暫くして薬売りさんが切り出して――私は、全てを話した。

もちろん躊躇いは相当あったけれど、だんまりは通用しそうになかったし、恋人である以上、話さなければならないと思ったから。

泣きながら話した。

薬売りさんも、泣いていた。

「助けられなくて、すまなかった」

きっと私を抱き締める為に、その手は差し出されたのだろう。

薬売りさんの手なのに、私は後退りしていた。

「……すまない」

謝らなければならないのは、私の方――。

優しい彼を傷つけてしまったのだから。

「ごめんなさい……薬売りさん」



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