あなた
□Non mihi,non tibi,sed nobis.
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数えるのが億劫なくらい昔から彼は少年の『おじさん』であった。
初めて会った時は現在よりもいくらか若く見えた気がするが、それでも彼は少年にとって尊敬に足る大人だったのだ。
「(もしかしたら僕の方がおじさんよりも年は上かもしれないけどね)」
妖怪の姿形に騙されてはいけないと言っていたのは砂かけ婆だったか、目玉親父だったか。いずれにせよその言葉は的を得ていた。
呼子は見た目こそ幼かったが随分昔から山の精として生きている。始めは森の緑の間を漂う思いとして生まれて漂い、そこへやってくる人間の声を聞いて音を覚え、いつしか漂流していた形而上の体は妖として固まった。
他の妖怪がどう生まれるかを知らない少年はきっとみんなそうして生まれたのだろうと考えていたのだが――。
いつだったか。
確か呼子が横丁と鬼太郎の存在を知り、会って見たいと出かけてきた日の夕暮時だった。
「おおーい。誰か、いないー?」
知り合いもいない場所へ、そもそも山から下りるのが初めてだった呼子は不覚にも迷子になっていた。普段住み慣れた場所で呼びかければ馴染みの動物達や、村の子供達が返してくれる返事も期待できない。
なんとかなるよねと確信もなく旅に出たことが甘かったことに今更気づいても遅い。横丁という特殊な空間が少年を拒んでいるようでもあった。
「おおーい、おおーい」
段々と日も暮れて、呼子の声もかれてくる。
(なんで、僕、ここに来ちゃったんだろ)
山にいればそれなりに楽しいのに。そう思った時、ぽろっと涙が零れた。
(鬼太郎という妖怪の子供がいるらしい。すごい力を持っているという)
「(友達になれるかなって、思ったのに)」
よく考えてみればそんなすごい子が自分の友達になってくれるなんてことは夢のまた夢のような気がして彼が引き返そうと背を向ける。
赤い夕日は呼子の気持ちが山へ向かうのを慰めるようにとろりと甘い光で包み、陰を細く長く帰り道に敷いていた。
「おーい」
遠くて誰かが手を振っている。
「おーい」
知らない声だった。
「(鬼太郎…?)」
横丁があると聞いた向こう側に逆光になった一つの影がある。
「お…おおーい!鬼太郎さんですかー?」
影は少年の叫びを聞いて刹那の間黙りこくり、すぐに大笑いし出した。
よくわからないがその声は優しくて、もっと喋りたいと彼に感じさせた。やまびこを返すのではなく、少年自身の言葉で。
かん、と下駄で固い地面を蹴って走り、陰の傍まで来た時、彼を慰めていた夕日が山の向こうへ沈んだ。
「よう、お前、呼子だな」
「なんで僕の名前を知ってるの」
「ちょっとな、仕事柄いろんな妖怪に詳しくなっちまってよ。なんでこんな場所にいるのかは知らねえが、泣いてる子供を置いてくことはできねえな。呼子は饅頭……好きか?」
「饅頭……ああ、お地蔵さんにお供えされてたりする……丸いやつ」
「食べたことないのか」
「うん。だってお地蔵さんのものはとれないよ」
丸い饅頭を呼子に渡した男は「最近やたらと子供に縁があるな」とくつくつと笑いを噛み殺した。
彼の脳裏に山吹の小袖の少女が蘇る。
彼女と一緒に行った店で求めたそれを呼子に与えた後、青年はこれからどこへ行くのかと彼に尋ねた。
「妖怪横丁に行きたいんだ。その、鬼太郎…さんに会いたくて」
「奇遇だな。俺も東へ行きたいと思っていたんだ。でも、いかんせん道がよくわからなくてよ」
一緒に行かないかと言われた呼子は嬉しそうに頷いて青年の後ろに付いた。鴨のように付いてこられるのに照れたのか、彼は呼ぶ子の手を取り歩き出す。
「俺のことは好きに呼んでくれ。蒼太……いや、蒼坊主でいい」
「うん。よろしくね! 蒼おじさん」
「お、おじさん?」
「どうかしたの?」
「いや……」
さっきの子供は一応お兄さんと呼んでくれたのにと微妙な気分になったが、屈託なくおじさんと呼ばれるのも気持ちのいいもので訂正もせずにおく。星が空を全て銀に染めてしまいそうなくらいに輝いていた。
「鬼太郎と友達になれるといいな」
「うん。おじさん、ありがとう」
(東はまだ、遠い)
「(あの時僕はおじさんのためになんでも出来る気がしたんだ。でも今はちょっと違うよ)」
Non mihi,non tibi,sed nobis.
(おじさんを含めた皆を大切に思うんだ)
2009.0906