あなた

□目撃木曜日
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バレンタインを三日後に控えた木曜の宵だった。黒鴉は彼女と雨に振られたことのあるある浜に降り立っていた。


打ち寄せる波の音さえ、密やかになる時間が迫っている。血潮に似た辛い水はたぷんと奇妙に心地よい音を弾けさせて彼の足を洗った。


今年も彼の想い人は愛する存在のためにチョコレートと格闘しているに違いない。一月前に横丁を訪ねた時に見た猫娘の幸せそうな表情が瞼に焼き付いて離れなかった。


練習だからといって渡された一口大のチョコレートは儚くも溶けて消えた。ただ、湯で蕩かして固めるという行為を通過しただけでこうも違う味わいがするものなのかと驚いたのを今も鮮明に覚えている。


(これは――恋、なのだろうか)


人に問われたならば否定する想いである。恋ではない、憧れであり、崇拝であり――とにかく恋情ではないと言い張る自分が手に取るように想像できた。しかし、黒鴉は自身でこうして自問することがあり、その時はどうしてか素直に認められるのである。


恋なのだろうと心中に呟くと波の音が胸に染みた。心に溢れる温い闇と同じ色をした夜の海が誘っている。心地よい自嘲と悲しみが溢れたその場所に腰を下ろした黒鴉は海と同化しかけた夜空を仰ぐ。当たり前だが想う女性はそこにはいない。


(あのお方なら――)


全てが黒に染まっていく、その中で彼は考える。こうしてその人を想い、慕う心はどこか幼く、限りなく無垢だった。無垢は穢れを一番引き立たせるのを知っている英明な若者は深い思案の海に同じ色をした自らの視界を滲ませて漂う。朝は遠い。


「猫娘殿」


彼女ならばこうして願えば現れてくれる。そう彼が思ってしまうようになったのはいつからだったか。霊界符に口付けてから黒鴉は休めていた翼を広げた。風を孕んだ漆黒は恋という光に戸惑い、そして喜んでいる。以前ならば当たり前だった空を行く行為も、今ならば受ける大気が甘く芳しい。


横丁の上空に差し掛かった時、黒鴉が見たのは薄明かりの中で先を急ぐ彼女の姿だった。


目撃木曜日 木馬に乗って


夜は彼の背を押した。ゆっくりと降下する黒鴉の後ろの雲が切れる。月は笑ったひとのようなふくよかな三日月――星はない。ないが、それ以上の明るさはいつだって彼の瞳に隠されている。猫娘を視線で追う時、彼はいつも眩さに目を細めていた。


「お送りいたします」


「あれ、黒鴉さん。なにかあったんですか?」


「いえ」


なにか大事がなければ現れることのない男。彼女にそう思われていることは知っていた。思わず小さい笑いを漏らしてしまった彼に猫娘は首を傾げる。非礼を詫びた後にたまたま姿を見たので、と付け足すと彼女はすんなりとそれを信じた。


海を見つめる黒い心も、愛する人の近くへと願う思いも、全てが夜空の色をしている。そんな夜に出会った奇跡に感謝しながら黒鴉は一歩を踏み出した。


「さあ、参りましょう」


微笑んだ男の笑みに隠された切なさに、彼女はとびきりの頬笑みで返す。探ることを知らない乙女はそれに抱かれてゲゲゲの森へ向かうのだった。

happy Valentine!

2010.0219
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