あなた
□幽霊の足跡
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稀に言いようのない空虚を感じることがあることに彼自身驚いていた。
それがなんであるかなど思い出したところできっと利はない。それどころか害さえあるかもしれない。
五官王はこの虚しさに慣れている。そのためにまたかと思っただけでそれ以上己の心を糾弾せず、握っていた筆を休めることすらしなかった。
人からすれば恐ろしく昔まで遡り、いつどのような仕事をしたかを覚えていられる頭は優れているだけ冷酷に必要な情報とそうでないものを的確に仕分けてしまう。
余程のことがないかぎり彼も忘却していくのだ。むしろそれを望んでいるという方が正しい。全部を知ったまま生きるのは人もそうでない存在にも辛いものだ。
喉が渇いて水を飲もうと椀を手に取る。生温くなってしまった水を口に含むとまた胸に去来する虚しさ。
体の渇きを満たすということひとつの仕種が疎ましい。そう前に感じたのは確か結構な昔だったはずだった。
(少し前までは、この疎ましさは仄かな温かみを持って傍にあったはず)
当時も今も五官王自体は変わっていない。しかし昔と今は全くあの時とは違う。
「早く消えろ」
幽霊の足跡
巡れ巡れ季節。
(ひとりの名前をいつまでも覚えていてやれんのはこんなにも辛いことであったか)
その笑顔も、呼ぶ声も、師を慕う小さな背中も見る度に愛おしく感じていた。
(お前を通して見ていた人間というものをわしはこれからも裁きつづけるのだ)
忘れていく。忘れられていく。
時の中に埋もれる思い出も、確かに交わした言葉も全部が朽ち果てた時にまたお前と出会えるかもしれない。
「(廻る命の一場面をまた共有できるといい)」
五官王が彼女の名前を思い出せなくなった未来。彼は首を傾げて心の隅に燻ぶるものを追いかけた。
「はて」
(大切なものを失った気がする)
だが、それは言葉にする術がなくなっただけで彼に溶け込んでしまっただけであると諭す存在など、ありはしない。
2009.0515