あなた

□小朶
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随分と時が経った。


最近時間が経つのが早い気がするのはきっと何十年も眠っていたからだろうと彼は思った。時というものを久しく意識に上らせないでいると、しんしんとそれは降り積もり、押し上げられて心が宙へ浮く。そうして孤独は増して、精神世界は一向に冷たく澄むばかりだった。


そんな中で人の濁流を羨ましくも浅ましく思い、それでも愛しく思うのは宋帝王の人ならぬ証である。


「どうして私はあの男がこれほど気になるのでしょう」


自分になり変っていたという男がどういうことを考えて己を偽っていたのか、そんなことに気持ちを馳せているとすぐにひと月ふた月と過ぎていく。理解したい、そんな思いがいつまでも消えないというのに答えは出ない。


今まで一粒一粒蓄えてきた言葉を尽くしてもたったひとりの妖怪の心を理解することはできなかった。自分が生きてきた恐ろしい程の年月も、それはあくまで自分を知るために費やしたものであって他人には届かないようである。


「(そもそも私とあの男と線引きをしている時点で私は全能ではないのだ)」


知は無知を知ることなりと言ったのは誰であったか。それが他人か自分かさえ分からない。


(無知)


彼はその言葉を思う時、よく大地がある天を見やった。赤く蠢く光の向こうは浄土というには穢れ過ぎた、地獄というには無秩序な国がある。その国は常に人が愛し合い、憎しみ合う場所で、とても美しく同時に悲しかった。


揺り籠である。


罪も祝福も全てがそこに揺られている。


(月が見たいと空を見て思った。あの青い光が自分を宋帝王ではない何者かに戻してくれるように感じたのだ)


静かに夢でも見ようかと窓辺に立っても降り注ぐのは太陽でも月でもなく、戦火を思わせる赤い色だけ。


初めは好ましかったその色も今ではつまらないものになり果てた。まどろむこともできない程の現実が鎌首を擡げている。


「(私が忘れた何もかも、それが例えもう二度と帰って来ないのだとしても良いのです。地上に注ぐ陽光も荒野を走る風も見上げればそこにあった星も月も。ただ、思い出して懐かしんで愛していたと、愛していると噛み締めることさえできれば)」


『男』が全く同じことを考えていたことがあることを、彼は知るはずもなかった。



風はいと心地よく



そうして夢も後なく夜も明けて、残ったのはかつての思い出が駆け抜けた後の微風の如き感情の小さな波。芳しい、それは、


「(松風ばかりや残るらん)」


(目を閉じても何も生まれない。闇に浮かぶ闇、赤の向こうの赤だけが揺ら揺らと瞼の底に燃えている)


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