8059・その他
□同じ温もり
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「獄寺くん!」
放課後。
下校準備を済ませ、10代目と一緒に帰ろうとしていたところで、俺はその10代目に声を掛けられる。
「10代目、さあ、帰りましょう。」
それを見つけた俺はそう言葉を返して。
教室を出ようと足を進めた。
そうしてなんの疑いもなく、昇降口へ向かおうとする俺はそこで、ねえ、と10代目に尋ねられた。
「行かなくて…いいの?音楽室。」
「はい?」
「掃除…。」
すっかり忘れていた、いや、行くつもりなど始めからまるでなく覚えていなかったというのが正しいのではあるが。
今の今まで、あの、音楽の時間に教師の言った言葉など、まるで思い出しはしなかったのだ。
「いいんですよ。俺には10代目をご自宅までお届けする義務がありますから!」
掃除なんて、どうしてこの俺がたかが教師のためにやらなければならないのか。
思い出しはしても、俺の頭がそう訴えるから。
俺はさらりと10代目に言葉を返し、再び昇降口への道を歩き出した。
「で、でも!」
それでも10代目はそう仰って。
「行った方が、いいと思うよ?行かなかったら、また怒られるだろうし…。」
真剣な目でそう言って下さるから。
俺はそれを10代目からの命だと受け取り、わかりました、と返事をする。
「本当は、手伝ってあげたいんだけど…。今日、俺用事があるんだ。ごめんね?」
「いえ、気にしないで下さい!俺の方こそ、お家にお送り出来なくて。」
申し訳なさそうに眉を下げる10代目に、俺も謝って。
それじゃあ頑張ってね、という声を聞いて、俺は音楽室へと足を進めた。
辿り着いた先で、ガラリと音を立ててその扉を開ければ。
中で待っていたのは、あの音楽教師。
「あそこの掃除道具入れに全部入ってるから。お願いね。私は職員会議があるから、終わったら帰っていいわ。…その代わり、明日の朝にしっかりチェックさせてもらうから。サボったらバレると思いなさい。」
俺の顔を見るなりそう説明して。
そのムカツク面を一瞬だけ笑顔にして。
そのままそこを立ち去った。
「…クソ教師が…。」
俺の悪態など聞こえていないだろう、教師の後姿は職員室のある方へと消えて行き。
俺は仕方なく、言われた通り掃除道具入れの扉を開けた。
中に入っているほうきを取り出し、音楽室の床を掃く。
見た目にはそれ程溜まっていなくても、掃けば掃くほど出てくる埃。
教室中に散らばるそれを真ん中に集め、一息をつく。
たかが授業をするだけの部屋であるのに、無駄に広いこの空間。
様々な楽器を使って合奏をするために設けられたであろうそのスペース全てを掃くには相当な気力が必要で。
そこそこ綺麗好きだとは自分自身でも思うのだけれど、それでも、自分の部屋ではないこの場所を丹念に掃除をするなど、出来れば行いたくない仕事だった。
だけど。
10代目がやって来いと仰ったのだ。
怠る訳にはいかない。
集めた埃を塵取りに集め、ごみ箱へ。
律儀に雑巾を絞り、モップで床を一通り通る。
窓拭きは…まあ、やらなくても咎められはしないだろうと高を括り。
結局床を綺麗にしただけで、音楽室の掃除を終了させようとした。
使用した掃除道具を元あった場所へと返す。
端に置いてあった自らの鞄を手に取り、教室を出ようとしたその時。
俺の視界に、黒く光るグランドピアノが映し出された。
これほど大きなものだ。
今まで気がつかなかった訳ではないが。
意図的に見ないように行動していた。
今日と言う日。
9月9日。
俺の生まれたこの日に、見るべき物ではなかったから。
ピアノに触るのは好きではあるのだけれど。
それでもそのシルエットを見れば、嫌でもあの人を思い出す。
俺にとって、あの人の全てがピアノで。
ピアノの全てがあの人だから。
“ピアノを教えてくれるお姉さん”
“姿を見せなくなったお姉さん”は
“俺の親父の愛人”で
“俺を産んだお母さん”
“交通事故で無くなったお母さん”は
“親父に殺された”。
俺の、3歳の誕生日に。
毎年毎年、だからこの日は本当に、すごく長い1日で。
何度も何度も、曖昧にしか覚えていないあの人の顔を思い出し、その腕で抱きしめられた温もりだとか、囁いてくれた子守唄だとか。
そのピアノの音色を思い浮かべては、孤独と戦う。
もしもあの人が親父の正妻だったなら。
もしも親父がマフィアなんて人間じゃなかったら。
ありもしないそんな世界を考えて。
現実に気がついて。
城を出たあの日から、誰にも祝ってもらったことのない生誕の日への期待を消し去る。
本当は、城を出るその日まで。
真実を知るその瞬間まで。
俺はまた、いつかあの人が俺の誕生日を祝いに来てくれるんじゃないかと、心の何処かで楽しみにしていた。
だから、あの人に聞いてもらいたい一心で、毎日毎日飽きもせずピアノを弾き続けた。
片手でしか奏でられなかったメロディーを両手で奏でられるようになり。
単音しか押さえることの出来なかった指で和音を押さえられるようになり。
成長した指の長さは、オクターブまでをも可能にして。
もう少しで、ペダルにも足が届くはずだった。
だけど。
真実を知ったあの瞬間、その努力が全て、無駄だったことに気がついたあの瞬間。
本当の意味で悟ったんだ。
もう、あの人には一生、会えないのだと。
俺のピアノを笑顔で聞いてくれる人はもういない。
大して上手くもないピアノを誉めてくれる人ももういない。
ピアノを弾くこと。
何度も止めようと思った。
それでも。
暇なとき、1人でいるとき、俺の指は自然と動き、目に見えない鍵盤を叩いた。
街で聞こえる音楽に耳を傾け、その旋律を頭でなぞった。
実際にその白と黒のコントラストに触れる機会など、城を出てから数えるほどしか訪れはしなかったが。
それを見つけては、必ず、その手を伸ばしていた。
心に残る、あの人の言葉を胸に抱いて。
「楽譜。」
「っ?!」
昔のことを考えている内に、無意識に座った、ピアノの椅子。
鞄をその床に放り出して、俺はその蓋を開けていた。
両手を鍵盤の上に乗せて、そのまま、動きを止めていたらしい。
そんなときに聞こえて来た誰かの声。
いや、誰か、ではなく、それは俺の聞きなれた声で。
俺のよく知る人物の声だった。
「山本…。」
その先に視線を向ければ、案の定。
そこには髪の毛をびしょびしょに濡らした、そう、一応は恋人という関係にある山本武が立っていた。
「てめぇ、なんで…。」
「雨、降って来たから中止になったのな。」
まだ部活中のはずだと不思議に思った俺が尋ねれば。
気付かなかった?と、持っていた白いタオルで髪を拭きながら、山本は笑う。
その言葉で窓の外を見れば、本当に大粒の、雨が降っていて。
そんなことにも気がつかないくらい考え込んでいたのかと、少し可笑しくなった。
「…何笑ってんだよ。」
「いや、俺も女々しいなと思ってよ。」
自分のずぶ濡れの姿を笑われたと思ったのだろう山本は少し不機嫌にそう言って。
だけど俺は自分に笑ったのだと言葉を返す。
そんな俺の言葉に安心したのか、山本はそっか、と言うと持っていた鞄を床に降ろし、その辺にある椅子に腰掛けた。
「しかし、びしょ濡れだな、お前。」
「仕方ないだろ、雨降ってからも練習続けてたんだから。」
それこそ文字通り、頭からバケツの水をかぶったかのような山本の姿。
水も滴るなんとやら、とは言うものの。
これだけ被ってしまえば、それも台無しだと心のどこかで考える。
いや、別に、コイツがいい男だとか、そういう話ではないのだけれど。
だけど、そういう話ではないにしろ。
驚いた。
姿形なんて全く似てなくて。
いや、似ているはずなんて更々ないのに。
重なったんだ。
コイツと、あの人の影が。
声の高さだってまるで違うのに、どうしてだか、いつも心に抱いていたあの人の言葉とコイツの言葉が重なって…。
そうだ。
さっきの、言葉。
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