桜下恋想

□幸せの傘
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*SSL



小雨が鮮やかな色をした紫陽花の表面を、長々と打ち続けている。
風間はそれを見ながら、家主の帰宅を待っていた。

ここは芹沢の自宅。毎日のように来ている風間にとって、ここの庭は特別珍しいものでは無いが、庭を眺めるしかする事がない。
芹沢の養子である井吹が夕飯の支度をしていて、キッチンからは味噌汁の香りが流れてくる。
一度、風間も手伝うと申し出たことがあるが、風間が料理をしたことが無いと知った井吹から丁重に断られた。

不意に家の電話が鳴り、雨音だけの空間を破る。
数回のコール音の後、井吹が出る声が微かに風間の耳に届く。
少ししてトタトタと足音が風間の居る部屋へと向かってきた。

「風間、俺ちょっと出てくるから、留守番頼んでいいか?」

顔を覗かせた井吹に、風間は振り返る。

「構わんが、誰からだったのだ?」

「ん?あぁ、芹沢さんだよ。傘を無くしたから、駅まで迎えに来いって。じゃ、留守番よろしくな」

「待て、井吹」

早々に去ろうとする井吹を呼び止め、風間は腰をあげる。

「俺が行く。退屈していたからな。貴様は、夕飯の支度の途中であろう?」

「え、あっ…まぁ、あんたが良いなら助かるけど。駅から芹沢さんと二人で並んで歩くとか、おっかねぇから」

素直に言う井吹に風間は苦笑し、では行ってくる、と傘を手に外へと出た。


空は重たげな雲が一面を覆い、夕暮れ時ではあるものの、茜色など片鱗もなく、ただただ暗い。
しかし、風間の気持ちは明るかった。
井吹が来ると思っているだろう芹沢を、少しは驚かせるかもしれない、どんな反応をするだろうか、そんな事を考えていると傘に跳ねる雨の音も、軽快な音楽に聞こえてくる。
小雨な故に、足元が濡れるのも僅かだ。

駅が見えてきて、屋根の下で雨を避けている幾人かの人の内に芹沢を見つけ、風間は歩を早めた。
芹沢は風間の姿に気づき、訝しげに眉を寄せている。

「芹沢、迎えに来たぞ」

芹沢の前に立ち、そう声をかける風間に芹沢は風間を下から上へと眺め。

「なぜお前が来たのかはこの際良いとして、傘はどうした?」

そう返した芹沢に風間は首を傾げ、自身の持つ傘の柄を差し出す。

「持っているだろう?」

今まさに傘をさして来たのだ、なぜそんな事を問われるのか分からないと言いたげな風間に、芹沢は溜め息を吐く。

「普通は、傘を持っていない者を迎えに行く時は、相手の傘も持って行くのではないか?」

呆れた様子で言った芹沢の言葉に、風間は自身の空いている左手を見る。空いている。何も、今広げている傘以外は、持ってきていない。
帰りは二人になるのだから、傘はもちろん二本必要なのだ。

「……忘れた」

芹沢を雨の中迎えに行くという、滅多にない事に、少しばかり浮かれていたのだ、ついうっかり忘れてしまった。
己のミスに俯く風間に、芹沢の再度の溜め息が追い討ちをかける。

「悪かった…貴様はこれを使え、俺は駅の構内で買ってくるから」

梅雨時なのだ、傘くらい売っているだろう。幸い財布はズボンのポケットに入れている。そう思い、芹沢に傘を押し付ける様に渡し慌てて構内に向かいかけた風間の手を、芹沢が掴む。

「お前は……なぜ俺がわざわざ迎えを呼んだと思っているのだ」

「え?…傘を無くしたからと、井吹が言っていたが」

「そうだ。傘は確かに構内で売っている、買わずに呼んだのだ」

「……なぜだ?」

「風間、節約という言葉を知っているか?」

「…ケチなだけでは」

芹沢の口から出るには意外な単語に、風間は驚く。
おそるおそる言い返すと、また盛大に溜め息を吐いて見せる。

「仕方ない、一緒に入れ」

言うなり、掴んでいた風間の手を引き傘の内へと入れると、早々に歩き出す。
慌てて芹沢の隣に並んだ風間は、ちらりと芹沢の横顔を窺う。

「芹沢、これはその、あ」

「言うな」

ピシャリと返され、風間は口を閉じるが、内心穏やかではない。
意図せず芹沢と相合い傘である、まさに棚ぼた的な状況だ。風間が故意に傘を持ってきていなかったら、おそらく傘を買うのを止めなかっただろう。
嬉しくて、頬がゆるんでしまうのを隠せず、風間はやや俯きがちに歩く。
と、繋いでいた手が離され、風間は微かに残念に思うが次には驚愕する。
芹沢が風間の肩を抱き寄せたのだ。

「せ、芹沢?」

驚きのあまり上擦った声を上げた風間に、芹沢は煩わしげに言う。

「もっとこちらへ寄れ、濡れるだろう」

瞬間、俺を気遣ってくれたのか芹沢なんだかんだでやはり優しい、そう喜んだ風間だったが、直ぐに芹沢は俺が、と付け足してきた。
ややムッとしたのも束の間。芹沢の、自身と触れ合っている肩の反対側の肩が、暗い中でも分かる程、スーツの色が濃くなっている。

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