◇ジロ跡text【2】◇

□2007-2008
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「ねーね〜」

思いもよらぬ、とはこのことだ。
シャワーのコックを捻り、髪を滴る水滴を切っていたその時、突如背後からノンビリとした声が聞こえてきたのだから、いくら跡部と言えども、一瞬ぎょっとしてしまった。しかし、声を発した原因に悟らせることなく、人知れず溜息を吐くと気を持ち直した。
ひょわあ、と動く生温い風に柔らかく包まれた体は、次の瞬間には肌に凍みる冷気が身に纏わり付くのを感じ、跡部は僅かに体を震わせた。
彼が佇む場所は私室備え付けのシャワールームだが、補足を加えるならば、彼の住む邸宅は、たといバスルームであっても適温に保たれる環境であるはずなのだ。
ただし、シャワーの熱湯を浴びた直後の火照る肌には、適温すらも肌に障る。
「‥ジロー、寒い」
どうせ聞きゃあしないのだということはわかっているが、自分の意は主張しなければ始まらぬのだからと取り敢えずは、浴室のドアーを片手間に開け放ち、顔を覗かせている慈郎に向けて呟いでみる。
「あとべさァ、」
―ほうら見ろ、とばかりに跡部は苦笑とともに眉根を寄せたが、慈郎としては、彼の頭(こうべ)がこちらに向いたことで彼の意識を得たと捉え、それを好機として更に訊ねているだけだ。
そのため、そういうときの慈郎には、その他のことを考慮するという考えは浮かばない。口早に用件を述べ、それに対する答えをもらわなければならないのだ。

今日の慈郎にとってはいくら対象が入浴中だとしても、それは然程問題にはならなかった。
むしろ、この場合、同じ屋根の下にいるのだから話は早いではないかといった気持ちさえ多分にあるため、それまで身を横たえ現(うつつ)の夢を漂うていた寝室を抜け、廊下を素早く駆け抜けこのバスルームへと侵入している。もちろん、目的を達するまでは引かないという意気込みがあった。
「お正月って何してた?」
「‥アン?」
それが、人の入浴中に、それも浴室のドアーまで開いて聞くことなのかと、金髪から差し出されたオフホワイトのバスタオルを受け取りながら思った。
それでも、突飛な会話こそ、彼に取っては何らかの筋立があってのことなのだろうと思い直し、一応は、彼の質問について考えを巡らせてみる。
浴室にはラヴェンダーの馨りが立ち込め、浴槽に波々と注がれた白濁の湯は、先(せん)に慈郎が湯を借りた時分にはなかったものだ。長湯の原因はアレか、と、慈郎は思った。そして、水滴を拭った体に、クロースに引っかけたパイル地のバス・ローブを掴みそれを優雅に羽織った跡部が、こちら側へと歩いてくる姿を見ていた。
「‥そうだな、……正月‥ねえ、」
跡部はフレーズを反芻すると、腰紐を結い上げたその手でドライヤーのスウィッチを点けた。
「特に何もしてねえよ」
そうして、事も無げに言い切った。
「ホント?」
慈郎に取って、今この時この会話に措いて、ドライヤーの轟音の妨げなど一向に気に掛からない。それでも手持ち無沙汰な様子でてのひらを仕切りに揉みながら、鏡に映る跡部の表情(かお)を注意深く見守っていた。
「つか、ほら、どっか行ったりとかあ」
「ああ‥それなら、バディと街に出て、」
と、ここで跡部は、それまで手で撫で付けていた髪束を、いよいよブラシでもってブローし始めた。
湿り気を帯びながらも、質が良くさらさらとした手触りの髪に櫛を当て、分け目を気に掛け梳きながら、いまだ慈郎の質問の真意はわからず、取り敢えず答えている状態だ。
「‥それで花火を見に行ったこともあったな。だが次の日からフツーに授業あるしな。別に、日本みてえに神妙に過ごしたりしねえよ」
「バディって誰、…や、違くって、じゃあ、じゃあカウントダウンとかもみんなでしたり!」
「いや、門限があンだよ」
寮だったしな、と付け加えたが、慈郎は聞いていないようだ。
「じゃあいいけど」
言葉のわりには微妙な表情のまま踵を返すような素振りをしたが、何かに気がつき思い直したように、慈郎は息巻いて、改めてこう訊ねた。
「そしたら、12時になるときは家族といたんだよね」
「‥ああん?家族は一緒には住めねえよ」
跡部はもとより、話を切り出している慈郎とて会話の流れというものをイマイチ呑み込めていないので、慈郎はポカンとした表情(かお)を晒し、跡部の顔をマジマジと見詰めている。
跡部としては、慈郎の質問からして意味がわからないのでただ、問われる儘に答えているだけなのだが。
「バディなら居たがな‥。‥もー良いだろ。すぐ行くから、戻ってテレビでも観てろ」
跡部から、会話の終止を掛けられては取り付く島もなくなってしまう。彼の性格上、こう決めたら最後、もう一度過去の会話の流れへ戻すのは結構大変なのだ。
慈郎は仕方なしに、言うつもりはなかったことまで打ち明けた。
「だってえ‥、そのテレビでやってたんだも‥。跡部のいたトコってカウントダウンのときはー誰とでもちゅーしてイイんでしょ?」
「‥はあ?」
顔を上げた跡部と、唇を僅かに尖らせながら上目遣いで見上げる慈郎とが、鏡の中で目を合わす。
その瞬間、普段と変わらぬ慈郎のぼやりとした表情の中に、微細に不貞腐れた様子を見て取り、ようやく慈郎の質問の概要がおぼろげにも見えたような気がして、跡部は苦笑を通り越し笑ってしまった。
「ハッ!その時なんざ、俺は10歳そこらのガキだぜ?」
「‥子供でもちゅーするかもしンないもん」
だから聞きに来ているのだと言下に含ませて、いよいよもって慈郎の顔は、駄々っ子のような膨れっ面になっていく。
ハア、と大きく溜息をひとつ。
「ジロー、こっち」
跡部は手にしていたドライヤーのスウィッチを切ると、自分が今時分占領していた豪奢な洗面台の前へ慈郎を拱(こまね)くと、素直に寄って来た慈郎の髪を引っ掴み、再びスウィッチを捻った。
「機嫌直せって」
拱(こまね)かれたことで既に笑顔が咲いていた慈郎に気付きながらも、跡部は、更にご機嫌を伺うような動作仕草で慈郎を喜ばせた。
温風と跡部の指先によって髪を撫で付けられ、擽ったそうに目をつむっている慈郎を真正面から見据えながら、彼の髪のほんの少しの湿り気を飛ばし、ドライヤーの電源を落としたころには、時刻はよろしくラストワン。
「ほらジロー、見てみろ。まもなく年明けだ。‥で、年明けは俺がどうしてたって?」
そう言ってニヤリと笑った跡部は、慈郎が何ぞ行動を起すのを待っているふうだ。
「やってみろよ」
不敵に笑む跡部に掛かっては、慈郎が拗ねる道理もなく瞬時に拗ねた原因すら、ときめく要因となるようだ。
「…あけおめ、あとべ、もっと屈んで」

結局のところ、はぐらかされたような形となったことには気付かないフリをして、慈郎は満面に笑みを湛え、目の前の幸せに飛びついた。


END.
「2007-2008」
20080101

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