乞ゐ姿 満天の航路

□海ゆく桓星
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冷たい風が頬をさする。眼下には深く広い海が広がっていた、海底に散りばめられた星屑や水晶が夜空のようで美しい。しかしこのつややかな海は落ちるとおわり、助け出せないと船長が始めに注意していた、 それを思い出してもロビーに戻る気は起きなかった。
有給なんて揉み消されてきた社畜に与えられた久方振りの休みなのだ、自由というものを噛み締めていたい。
甲板を通る風は伸びやかで爽やかで、気持ちがいい。
はて、この雲海を行く白い船は、なんと言う名前だったか。
船体に書いてあるだろうと、金色で彫りの施された柵を掴んで頭を投げ出す。海がより近くその煌めきに見惚れた、暫し目的を忘れて見つめていると綿のワンピースの裾を掴まれ腹に腕を回されてぐいっと勢いよくデッキの内側に引き戻された。
「サクラ様」
「ぐえっ!‥‥船員さん‥」
どうやらこの船の人は私の名前を上手く発音出来ないらしく、船員でさえ少し間違った呼び名で呼ぶが仕方ない、どうせそこまで名前に拘りはないので 訂正は一度きりにした。女性としては長身の私でも見上げるほど背が高い、確か、この人は乗船したときに水をくれた船員だったと思う。ミネバリの木材をナイフで削り出したような、深い掘りに収まった淡い色の目がじっとこちらを見ていた。そこに潜む感情はそういう職業柄か伺えない。目があって数秒、私の体を丁寧に離して、つばのある制帽を被り直すとその一本線の唇を重そうに開いた。
「サクラ様、海は大変危険ですと船長が初めに説明させて頂いた事をお忘れですか?この海は底無しで―」
「すいません、名前を見たくて」
そういうと、その淡色なのに白目とのコントラストの強い瞳が少し見開く。それでもまた重そうに口を開いて
「Fixstern 号でございます」
「フィクシュテ、ルン、」
反芻しても、全く頭に残らない。そんな私の様子を知ってか知らずか船員さんは続けた。無愛想な唇とは裏腹に声は低く伸びやかでアナウンサーのようだ。
「船名など大して重要では御座いません、設備のほうがこの船の売りでございます。勿論、サクラ様のお部屋はこの船でも指折りの景色の良さと快適さ
でございます。 貴女様はお風呂が好きだからとお聞きしましたので、いつも朝夕沸かすように手配しておりますよ」
「それは、有難いです」
「どうです。もうお湯が沸いた頃、月が緑の頃に 船内一回大広間にてピアノ演奏とオペラが上映されますよ。お着替えされて、ご覧になられては?」
ああ、ドレスコードはスマート・カジュアルでございます。―にこり。スマイルを浮かべた船員さんの口元は相変わらず重そうだ。
「ああ、それと私はヴァサーマンと申します。何か御座いましたら何なりと」
そういって仰々しく胸に手を当ててお辞儀をするヴァサーマンは、船員さんというより執事のようでもあり、何よりこの船の黒い制服は他船の船員たちより裾が長めで、制帽もつばが大きくて、軍人か車掌のようにも見えた。



ヴァサーマンの言った通り、この客室は大変良い。あまり柄物が好きではない私好みの無地の正絹のソファーカバー、カーテン、椅子のクッション、全て統一されたミルクがかったブルー。肌布団は故郷のものに似ていてガーゼの柔らかさが心地よい。しかし此処は液晶も光通信もないようだ。その代わりと言わんばかりに大量の小説や図鑑 辞典が本棚に詰められていた。
電波に支配された私の以前までの生活とかかけ離れていて、乗船してから私の通信端末も忽然と鳴らなくなった。薄紫の薄っぺらい端末をベットに放り投げて、薔薇の香りのする方へ向かうと、 そこには銀河が広がっていた。
正確には、床がガラスになっていて先程の海底が見えるようになったバスルーム
煌めく海が足元に、浴槽と壁は海の色を溶かしたような群青。部屋の柔らかなイメージとはかけ離れていて、ここだけが別世界だったが青色に包まれて私はどんどん海に溶けていく。
薔薇の香りのするお湯、ほくほくと浮かぶ湯気が私を早く早くと促しているようだ。
綿のベアトップのワンピースの背中の編み上げを手早く外して、体も洗わずにお湯に飛び込む。ああ、心地良い。浴槽の底もガラスになっていてまるでさっき見惚れたあの海にいるようだった。お湯の中にいるのに薔薇の香りは相変わらず私の鼻をくすぐり、目を開けていても痛くはない、ぐっと手を伸ばすとあの星屑を掴めそうで、どこまでも深く 水を漕ぐ、
だけど無情にも コツン と指先は風呂の底に当たった。
私はそれに気を潰されて一気にお湯から肩まで出して、たっぷりと息を吸った。どうせ私はあそこまで行けない。
風呂の大きな窓は月が黄色く輝いていた。あと一時ほどで月は緑になる。
それにしても不思議、窓の景色はどう考えたって私の客室のある上階のものなのに少し目線を下にやると海底がそこにある。

文字に表せない感情が沸き上がってきて、女は肩口までの髪を洗って、体を流すとさっさとメイン・ルームに戻った。濡れ烏色になった髪を乾かしもせず、見た目好ましいベットに倒れる。綿が女の水気を吸ってどんどん固くなる。疲れもしてないし、眠くもないけど、このまま朝までこうしていたくもなってきた。一糸纏わずに湯気をたたせて、頼りない姿でベットに横たわる、それでもここは海の上窓の外には街頭も家々も人々も居ない。
誰も 誰も‥‥――


ふと布団から顔をあげて見えたのは、緑になった深い夜の月。微かに、美しい旋律と高らかに響く歌 オペラだ。
もそもそと起き上がり、白地にピンクのラインのトランクを開ける。 如何にもチープな見た目だが私はこれを十代から愛用している。物は入らないが、大切なお気に入りのものと美容品 愛用の下着、スキニー、ワンピース、これらさえあったらもうなにもいらない気分だった。家に帰れば数々の本と小物と宝物とアホみたいな量の服たちが私を待っているだろう、だが彼女たちは当分着られることも身に付けられる事もない。
ドレスコードに敵うだろう 白のハイネックの総レースのワンピースを纏う。無核の楕円のパールのイヤリングをつけて、鏡台へ行く。 ワオ、酷い髪!櫛も通さずに濡れ髪で横になったバツだ。コテとドライヤーでなんとか形にして、ブラウンのアイライナーで目を囲んで 口紅をつけて さぁ オペラへ。

「シャンパンはいかがですか?」
「‥‥カクテルはあります?」
「御座います、あちらに。」

白金色の髪の典型的な美男子のボーイはそれは綺麗に笑ってバーを示した。広間は18世紀風か、金色と緋毛毯と絵画で埋め尽くされ高い天井にソプラノが響く。着飾った男女がひしめき合って踊ったり話したりキスしたり、外人さんは 凄い。服装はみんな膝丈やアンクルライン ミニなので私は一先ず安堵した。
ボーイとお揃いのでも女性仕様でセクシーさが際立つ制服を着こなしたバーテンダーの女の子が言わずともカクテルをだしてくれた。光る歯並びの笑顔がかわいい。
「マッチャ ミルク割です」
「ああ、ふふ。ありがとう」
ちょっと照れたように、でも嬉しそうに笑われると違う味がのみたいとは言えないのが性か愛想笑いでその透明のグラスに口付ける。うん、抹茶は酒に合わない。
眉を皮膚の下で潜めていると、男声の高らかな歌声が始まった。すこし熱っぽいの 恋の歌だろうか?
これは序盤だったろうか。昔のナショナル・ランゲージは自分の名前の読みと意味くらいしか解らない、故にラテン語など解る筈もない。歌詞は全く入ってこない。しかし意味を知りたいとは思わない、語感が美しければ私は構わない。
「 真実の恋か、気まぐれか、それは分かりませんが、うすいガラス細工のような娘が、小さな蝶々のように軽やかに振舞う姿は、まるで絵双紙から抜け出た美しさ‥‥その羽をむしりたい衝動にかられる‥‥」
‥‥‥‥やっぱり歌は、メロディだけが良い。

「Hi madam butterfly. Uhh? Missing Pinkerton?where is he?」
「夫人は舞台上よ」
「ノーノー、あれは役柄 君は本物。だろう?」
「ホンモノ?血だけだわ」
「流れる血が同じなら、内包するものは大体同じだろう」
「私は浮気されたら男を社会的に殺すわよ」
Ohhhと声をかけてきた男は大袈裟に笑った。生っ白い肌が第一好みではない。軽くうねった、女好きしそうな髪型の若い男は にこりと上がった口角がどんどん言葉を紡ぎ出す。
「一人なのかい」
「どうでしょう」
夜会巻きにされな黒のような、でも栗毛のような光の加減で変わる艶やかな髪からは石鹸の香り、細面の輪郭 Eラインの美しい横顔 黒い睫毛に囲まれた暗色の瞳。象牙を彫り上げたようなクリームがかった肌は決め細やかで男の欲を誘った。恋と享楽を求めて旅をする放蕩息子に女は一瞥もくれない。
「君も旅?」
「ええ。」
「あの海底星郡をみた?とても綺麗だよね。夢の中みたいだ」
感嘆の声。それはまるで子供のようで、思わず女はこっそりと青年を盗み見た。シャンパンに口付けながら 本当に美しいものをみる キラキラした目で語る顔に 少しづつ不信感が溶けていく。

「あの瑠璃のような水晶も、スターダストもとても綺麗だよ。きみの耳の宝石もあの結晶が貝にはいってできるんだろう?」
「そうなの?」
「そう。昔は無理やり核をいれてたらしいけど、いまはその技術はなくなっで偶々゙待ちのものなんだよ。だから真珠、゙真゙の宝゙珠゙って言うのさ」
「随分詳しい、男の人なのに」
「‥‥母親がよく教えてくれたよ。母は特にヒヨミの金工細工についたのが好きだったんだ」
「ヒヨミの細工?高級品の代表ね」
やはり放蕩息子か、カクテルを一口飲み込んで 女は密かに笑った。だが、嫌な気持ちは完全に消え去った。異性としてより 親戚の少年に対するような 可愛がるような気持ちが沸き上がって 青年の話を聞いた。女がその話題に食い付いたと錯覚して 青年は幼少の頃の記憶を掘り出して行く。
彼の国はここからずいぶん西の方、ユナイレイ大陸にあるという。彼処は政治と金融の中心地 富豪も貧困も人種も入り交じった場所 この青年の人種はピーチ、数百年も最上位にいる。次にチョコ 、私のクリームがこの世界の人種である。
ぼんやりとしていると彼の身の上話は終わったようだ、全然聴いて無かったがしょうがない 私はこういう人間である。
「旅は自分を遠くから見つめられるからね、僕はダイスキ」
「それは逃げてるだけね、私もだけど」
「そうなんだよ!うんうん旅行とは逃避行さー」
彼は一瞬沈黙したあとにカラカラ笑いだした。意外と心のなかには 彼を冷静に見つめる自分も持っている人であるようだ
「母さんは美しかったんだ。それ故に、権力に子を産まされたんだよ」
笑い声が止まったので隣を見やれば彼がはらはらと泣いていた、静かで、音もない涙だった。
「絶望は歩き出せるけど、希望は縛り付ける‥‥」
「‥‥‥?」
「クリス なにしてるの」
‥‥‥あらら、多数の人のなかで確実にこの隣の青年に向けられた声に急に心が萎えていく。興味も好奇心も音もなく私から去った。ちらりと振り向けば、ビスクドールをすこし痩せさせたような女性、美貌を怒りに震わすところを見たくもないし 人のものに手を出すなんて趣味は尚更ないので、ささっと椅子から立って何事もなかったように 人波にまぎれた。
微かに゙クリズとビスクドールとの会話が聞こえた気がした

「シャンパンは?」
「‥‥泡の少ないのを下さい」
「畏まりました。」
ボーイは柔らかく笑った
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