「……は?」
 夜遅くまでかかった仕事をようやく終わらせ、すし詰め状態の電車に揺られて、北風の吹き荒れる寒空の中、クタクタになって帰ってきたアキラが、ようやくたどり着いた自宅の玄関の扉を開けた時に視界に飛び込んできたものは、一匹の猫だった。
「んにゃ〜」
 突然の光景に困惑している人の事など気にもせず、のんきに毛づくろいをしている。眼帯をしているような黒い毛。着物を羽織っているような茶色い毛。ケセランパサランのようなふわふわの白い毛。とても野良とは思えないほど、猫の毛並みは艶やかであった。
「あ? どこの飼い猫だよ、ったく。こちとら疲れてるっつのに」
 満員電車に揉まれてクシャクシャになった髪を掻き毟りながら、ひとまず喉の渇きを潤すために冷蔵庫に向かった。冷蔵庫を開けると、そこにはビールや牛乳、麦茶などの飲み物が立ててあるだけで、食料というものはこれといって見当たらない。せいぜい数個の卵と、一枚のハムがポツンと置いてあるだけという、なんとも淋しい空間が広がっていた。そこから缶ビールを取り出し、プシュッ、という音を立て、喉の奥へと流し込んだ。
「ぷはー! 生き返るー!」
 この世に生きる喜びを再確認する最中、足もとにチョコンと座り込んでいる猫は、ジッと見てその視線を離さない。視線の先には黄金色の至福が握られていた。
「これがほしいのか?」
 そう問いかけると、それを理解したかのように、んにゃ〜、と一声だけ返して足もとにすり寄ってくる。やれやれ、とため息を洩らしながら、さすがにビールを与えるわけにはいかないので再度冷蔵庫を開き、明日の朝用に取っておいた牛乳を平皿に注ぎ、コト、と床に置いた。しかしひと舐めふた舐めしただけで、その短い行為をやめた。
「なんだよ、ほしかったんじゃないのかよ」
 まだ子供であるこの猫が人間用の牛乳を飲むと、乳糖不耐症により下痢になる可能性が高いという事を、今はまだ知らない。勿体無い事をした、と不平を洩らし、残りの牛乳を流しに捨て、仕事の疲れをとるため風呂に入ろうと、服を脱ぎ始めた。とはいえ、風呂に入っている間、目を離すのは、お互いにとって不安要素が多すぎる。どうするべきか。いったん服を脱ぐのをやめてしばし考えた後、思い出したかのように何かを探し始めた。
「え〜っと、たしかこの辺に……ああ、あった」
 押入れの奥の方から引っ張り出したのは、今は季節はずれとなった扇風機の入った箱だった。そこから元の住人である扇風機を追い出し、空いた箱に放り込んだ。これで良し、と満足げな顔をして風呂に入った。
 風呂から上がってから、なんとなくどうしているかが気になって箱の方に向かうと、
「あ、あれ?」
 箱は横たわり、中に入れていた猫も当然いない。まいったな、と濡れた髪を拭きながら、床に落ちているもの(本人は置いてあるつもりなのだが)を片手でどかして探し始める。お〜い、ねこ〜。声をかけてもその返答は得られない。せっかく風呂に入ったというのに、埃まみれになってしまった。時計を見るとすでに丑三つ時。翌日寝不足になることは確実であった。
「ちっ」
 軽く舌打ちをして、猫ごときで明日の仕事に支障をきたすものかと、捜索を諦めて寝ようとベッドの布団を捲くると――
――あ。小さく丸くなって眠っている愛らしい姿が、そこにはあった。やれやれ、と再び洩らし眠りに就いた。






* * * * *






 翌朝、やわらかいものが顔を叩いた。初め、何が起きているのかまったく把握できなかったが、頭が冴えてくるとため息をつきながら起き上がった。部屋は薄暗く、朝とも夜とも区別のつかない空間が広がっていた。
「お前……、まだ早えよ」
 いつも出勤時間は七時。枕元に置いてある、不思議の国のアリスのようなアナログ時計の針は、まだ卯一つ刻を過ぎたばかりだった。はあ、あと一時間は眠れたのに、と眠い目を擦りながら、窓のカーテンを開ける。どうやら太陽は、まだ地平線の彼方で微睡んでいるようだ。ただでさえ遅くに就寝したというのに。改めてガックリと肩を落とす。そんな落胆も、空腹の猫には関係ない。朝食を催促するかのごとくにゃーにゃーと鳴いている。
「ああ、もう分かったよ、ちょっと待ってろ」
 冷蔵庫を開けて牛乳を――出そうとして気が付いた。ああ、昨日飲ました時に切らしてたんだっけか、つか飲まなかったしな。所望していたものが無かった事と、睡眠時間があまり取れなかった事で、今日のテンションは朝から最悪だった。寝ぼけ眼を擦りながら、不機嫌の張本人の元へと戻る。
「まったくお前は――」
 ――しょうがない奴だな、とここでふと気付く。この猫に名前がないことに。人様のものだと決め付けていたということもあり、固有名詞をつけることは些か躊躇していたが、名がないのではこの先いつまでいるかも分からない猫の呼称に困る。何がいいか。そう考えているうちに、予想以上に早く起床した不機嫌さも、寝不足による気だるさもどこかへ吹き飛んでいた。それに気が付くのは、会社に着いてからの事だ。
「んじゃあ――」
 ――ミケ。散々考えた割には、毛並みが三毛猫だからという安直な理由で落ち着いた。呼びやすきゃ何でもいいか。そういって自分のボキャブラリーの無さを誤魔化しながら、いつもより早めに出勤の仕度を済ませた。スーツを身につけ、寝癖のついた髪を人前に出られる程度に梳かす。時刻は六時。
「それでいいか? ミケ」
 その問いかけに、にゃっ、と同意に聞こえる声を上げた。猫は――ミケは自分に名が付いた事に満足している様子だった。その日から、名無しの三毛猫は『ミケ』になった。とりあえずその場しのぎに、と冷蔵庫から寂しく取り残されていたハムを朝食代わりに与えようとしたが、少し止まり考えた。子猫がハムを食べるのだろうか。やはりミルクの方がいいのか。いろいろ考えた結果、
「とりあえず今日はこれで我慢な」
 食べなければ食べないでいいか、という結論に達し、一応与えてみる事にした。自分はいつも家で食事をする事が少ないため、家の冷蔵庫は電気泥棒と言われても仕方ないほどその使用頻度は低く、ハムの賞味期限が明日に迫っているという事も重なったからだ。食への執着は、あまりない。そうこうしている内に出勤時間が迫っていた。少し早いけど。起床時間が早い分、早めに家を出ようと玄関のドアノブに手をかけて、その行為を躊躇させるものが目に入った。
「にゃ〜」
 ミケだ。仕事に出ている間、家で独りきりという状況が生まれる事になる。その場合、部屋もミケも心配になった。このまま置いていくわけにはいかない。結局、留守番場所を探すのにそれなりの時間を要し、いつもよりも遅い時間に出勤せざるを得なくなった。結果、遅刻してしまったという事は、わざわざ記述することでもないだろう。






* * * * *






 それから、一人と一匹の生活が始まった。何処の猫かは分からないが、野良でない事は確かなこの子を、木枯らし吹き荒ぶ野外に放り出すのは躊躇われたし、警察に届けて飼い主が見つからなければ保健所に連れて行かれてしまうかもしれない。そう思ったらウチで面倒を見た方が遥かに安全だと感じたからだ。近所にポスターを貼って、飼い主捜しも始めた。しかしなかなか見つからない。日が経つにつれて愛着も出てきた。自分が付けた名前も違和感無く定着した。毎日が楽しくて、たとえ仕事で辛い事があっても、自宅で待つ彼女の事を思うと、乗り切ることができた。もうウチの子にしてもいいかもしれない。そんな事すら、思い始めていた。
「お前は寂しくないのか? ミケ」
 元の飼い主から別れただろうに、暢気な顔で欠伸をしている。まったくお前は。他人事のように過ごしているのを見ていると、こちらの行動が馬鹿らしく思えてくる。突如現れた子猫によって生活が変わりつつある事を、感じずにはいられなかった。食事もちゃんと作るようになった。冷蔵庫もフル稼働で生活の手助けをするようになった。床に物を散らかしっぱなしにする事もなくなった。だらしない生活習慣が、次第に正されていく。
なんとなく生活にゆとりが出てきたからか、やがて一つの恋をした。相手は一つ年上の同僚。背がスラリと高く、大人びた容姿を持ちつつ、性格は子供っぽい。そのギャップに強く惹かれた。片想いを続ける事三ヶ月。意を決して想いを告げる事にした。逃げたくない。想っているだけじゃ、駄目なんだ。その強い想いが、一世一代の行動へと駆り立てた。
「あ、あの、も、もしよろしければ、お、お付き合いをしていただけませんかっ!?」
 緊張はピークに達し、必要最低限の事しか伝えられなかったけれど、それで十分だった。自分の想いが、相手に届けば、それでよかった。返答を待つ間、手は震え、足はすくみ、相手の顔を直視できない。そうして待つ時間は、ほんの数十秒だっただろうが、感覚的には幾時間にも幾日にも感じられるほど長く、拷問にも似た時間だった。そして待ちに待った返答は――






* * * * *






「はぁ……」
 鞄をそこら辺に放り投げ、たまたまそこにいたミケは勢いよく跳び上がった。脱力感に負けて、ベッドに倒れこむ。今日はもう何もする気になれなかった。“明日まで、待ってくれない?”――YesかNo、どちらかの返答を待っていた側にとって、この返答は拷問時間の延長に他ならなかった。――明日まで――その言葉は、意識していないわけではないという嬉しさとともに、即答はできないという悲しさで、恋する心を充満させるのに十分な一言だった。足元で食事の催促をする仕草を見せるミケも、視界には入ってこなかった。やがて諦めたのか、渋々と寝床に戻ると、ふー、と唸り、ふて寝を決め込んだ。
「恋、したんだな……」
 初めての恋。初めての告白。そして初めて過ごす空白の時間。色恋沙汰とは縁のないものだと思っていた。自分は一生独り身なのだと。仕事に生きて、独りで生涯を終えるものだと、そう思っていた。人に好意を持った事はあったが、こんな気持ちは初めてだった。だからこそ今行かなければ、もう二度と訪れないかもしれないという思いで、動いた。そして迎えた、この時間。明日の自分はDead or alive。そう思うと、途端に今日の緊張が再来してきた。ああ、どうしよう、眠れないな。布団を抱きしめながら、右へ、左へ、寝返りを打つ。壁にかけてある時計がカチコチと秒針を進める音と、眠れない事の不快感による唸り声が部屋に響いていた。
「あし、た、かぁ……」
 悶々として眠れない夜を彷徨っている内に、仕事による肉体的疲労と、告白による精神的疲労が、モヤモヤとした気持ちと共に夢想の世界へと誘った。






* * * * *






 翌朝、目を覚ますと、何やら声が聞こえる。起きたばかりの視界は低く、目の前にはテーブルの足しか見えない。寝ぼけているのか。昨日も遅くまで飲んでいたのか。それでテレビをつけっぱなしで寝てしまったのか。そう思いながら起き上がり、頭をポリポリと掻く。そうして気が付いた。
「ようやく戻れたわ。ありがとね、今まで世話してくれて」
 目の前に見知らぬ――いや、あまりにも見慣れすぎた女が立っている。波ひとつ見当たらない長い茶髪。皺ひとつ付いていない黒のスーツと、純白のファーコートを纏い、その女は立っている。目の前に、見下ろすように、立っている。昨日まで毎日のように鏡で見ていた、その顔で。今まで手入れをした事が無かった髪を見事に美しく生まれ変わらせた、その容姿で。まるで理解ができなかった。これは夢かとも思った。自分が猫で猫が自分などという、この現実離れした状況を、どうやって理解できるだろうか。
″冗談じゃない!
 ようやく絞り出した一言は、にゃー、という聞き慣れない一言に言語変換され、本当の思いが「人間」に伝わる事はなかった。
「それじゃ、新しい飼い主さんによろしく」
 理解する間も無くミケは――ミケだった女は、その長い髪を翻し去っていった。刹那、視界が暗闇に閉ざされた。






* * * * *






「あら?」
 仕事から帰ってきた女は玄関で見つけた。毛並みのそろった美しい一匹の雌猫を。
「にゃ〜」

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