短篇

□ひとならざる。
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黒川主も、一度人の女と間違いを犯しはしたものの、根はいたって真面目な男で、約束を違えるような質ではない。
「それはできぬ相談だぞ、黒川主。お前と綾子どのの縁はとっくに切れておるのだ。なんだって突然そのようなことを。」
「いや、俺はもう綾子どのに未練はない。俺が綾子どのに抱くのは、俺の子を無事に産んでくれた感謝、それだけだ。」
「ならば、何故。」
「息子だ、晴明どの。」
黒川主は、頭をたれて、そう静かに言った。
「わが息子が、母に会いたがっているのだ。」
染み入るような、静寂が走る。
「あのときの子か…」
「あぁ。俺に似ず、親思いないい子だ。」
黒川主は、ふう、と小さく息を吐く。
「わが息子だけなのだ、晴明どの。生まれてすぐ父に育てられ、母の顔すらも知らぬのは。俺はあれの父として、一目くらい、母に会わせてやりたいのだ。」
頼む。
黒川主は手をついて言った。
水に濡れた足が、濡れ縁に小さな雫を飛ばす。
「俺は、もう綾子どのには姿も見せられぬ身だ。このようなことを頼めるのは、晴明どのしかいないのだ。」
黒川主は、悲痛な声でそう訴えた。
しかし。
「それはできぬ。」
晴明の返事は、はっきりとしたものだった。
「何故だ、晴明!」
黒川主はその言葉に驚き、また憤慨した。
非常に丁重だった態度も、食って掛かる獣のそれに変わる。
「俺のしたことは、本当に悪かったと思う。綾子どのにも申し訳ないことをした。だがな!息子には関係のないことだ!自分の関係のない理由で、母の顔も知らぬまま生きてゆくなど、あまりに不憫ではないか!!」
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