短篇

□いやよいやよも。
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「大体、何故俺のところへ来るんだ。女のところへゆけ、女のところへ。お前なら喜んで泊めるだろうが。」
「保憲様に聞いて頂きとうございます!」
「はぁ!?」
何故俺がそのような面倒なことを。
明らかに保憲の顔は嫌だと言っていた。
旦那の愚痴を聞かされるのを好む馬鹿が何処にいるというのだ。
この忠行の大事な可愛い愛弟子は、こんなに我儘に育ちましたよ、と冥界に文を出したいぐらいである。
しかし興奮しているらしい晴明は、構わず話し始めた。
「昨日の晩のこと。私はいつも通り、あの馬鹿と酒を飲んでおったのです。」
実に良い夜であった。
名月に、虫達の声。
冷たくなった風に揺れる枝の音。
薫る桔梗や熟れた果実。
自然を愛する博雅は、その荒れ具合をたしなめながらも、晴明の庭を気に入っていた。
良い気分になれば、笛が吹きたくなるのが博雅である。
『何を吹こうか、晴明。』
『何でも良いさ、お前の笛なら。』
そんな博雅に、晴明もいつものこと、と笑っていた。
しかし。
『やはりこう月が出ておると、蝉丸殿の琵琶を思い出すな。三年もよう通うたものだ。』
『そう、であったな…』
蝉丸、という名が出て、晴明の顔が引きつる。
『流泉、啄木。俺も教わったが、蝉丸殿の音はまったく良い音だ。美しく、なめらかで、それでいて哀愁のある…』
そんなことには全く気付かない博雅は、堰を切ったように話す。
それが只の楽の話であったなら、晴明も静かに頷いていただろうが、これは楽の話というより蝉丸の話である。
秘曲聞きたさとはいえ、毎夜毎夜こっそり通った男の話をされては、さすがの晴明もおもしろくない。
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