短篇

□遠出
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「なぁ、博雅。山へ行かないか。」
晴明の突然の申し出に、博雅はぽかんと口を開けたまま動かなくなってしまった。
それもそのはず、ここは内裏で、しかも喋ったのは晴明本人ではなく、小さな小さな羽虫だったのだ。
「おい、博雅。聞いているのか。」
「聞いているから驚いておるのだ、馬鹿!」
何故こんな真っ昼間から内裏のど真ん中で山へ誘われなければいけないのだろう。
しかもこんな吹けば飛ぶような虫に。
「内裏でお前を堂々と誘えるわけないだろう。仮にもお前は貴族なのだし。」
「だからってこんな羽虫に…何でもいいにも程があるぞ。」
「適当なのがいなかったのだ。石が突然喋るよりはましだろうが。」
まわりをぶんぶんと煩く飛び回る虫の言葉に、確かに、と危うく納得しかけたのが、博雅には非常にむなしかった。
「何故急に山なんだ。また鬼でも出たのか。」
「別にそういうわけではない。」
ただ急に行きたくなったのだと晴明は言った。
むう、と博雅は唸る。
思えば、晴明が何の理由もなく、どこへ行きたいとか、何がしたいとか、単純な我儘を言うのもとても珍しいことだ。
聞いてやらねばなるまい、と博雅は思った。
「今日は仕事で無理だから、明日でもいいか?」
「なら朝からだぞ。俺を一日待たせた罰だ。」
「罰って…仕事だと言ったろうに…まぁ、わかった。明日の朝、お前の邸へ行くよ。」
約束だぞ。
羽虫はそう念を入れると、ぶぅん、と羽音をたてて忙しそうに飛んでいった。
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