書庫4

□In Paradism 霧雨の日
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「長谷川さん、煙草持ってねェか」

そう土方が着流し姿で楼主の居室に顔を出したのは、昼が過ぎたころのことだった。
昔は昼からは昼見世があって、それまでに遊女は身だしなみを整えていなければならなかったのだが、遊女屋もここひとつきりになってしまった今は、幕府の形ばかりとはいえ取り締まりもありおおっぴらに見世など出来はしない。
長谷川はふてぶてしい男ではなかったから、昔ながらのやり方を強引に貫きたいとは思わなかった。長谷川屋が吉原からここに移動してきたのは、先代の代でのことだ。だから長谷川は、青年期までは吉原の様子見てきたものの、そこまで吉原風というものにこだわりはないのだ。玉代だとかも随分融通が利くようになっている。娼婦の元締めとして最低限やらなければならないことだけをする、というのが彼のスタイルであるらしい。悪く言えばただの怠惰だが、世相も大分変わってきているのだ。昔のように手ひどく搾り取るのは長谷川の性情が向かなかったし、かといって彼女らを縛るだけの制度ももう無い。だから吉原風、といっても、代金はまだ娼婦によって高い低いはあるものの、大体楼の内は和やかだ。
もっともそんな長谷川の性情が怠惰とだけ映ったのだろう、彼の妻は少し前に出て行ってしまい、今では行方も知れないという。

「妾(あたし)で良かったら面倒みたげるのにねェ」

きゃらきゃら笑う遊女達はやもめになってしまった旦那を暖かい目で見ている。
女将さんの見る目が無かったのサ。そうさね。中々情に厚い好い人じゃあないかい。ねェ、トシちゃん。
最後には何故だか話にも加わっていなかったというのにトシがそう呼ばれて、苦笑して一寸頷くという風に彼をめぐる会話は決まっていた。

「トシかい。…お前さん、昨日はオフだったって?」
「心配しなくてもちゃんと寝たサ。それより、煙草」

早く、と雇い主に催促をした彼はそうは言うもののまだ眠たそうだった。元々低血圧気味の土方が、この時間に起きているのは、ひとえに昨日のお勤めがなかったおかげだろう。擦ったのか目元を一寸赤くしている姿は子供のようで少しほほえましい気分になる長谷川である。
だらしなく万年床に寝そべっていたのを、上体を起こして箪笥の抽斗から刻み煙草の袋をひとつ放ってやると、上手くそれを捕まえたトシは器用に丸めて愛用の煙管に詰め込んだ。燐寸でぱちりと火を灯す。たちまち上がった紫煙に、目を細めていかにも美味そうに有害物質を喉のうちへと招き入れると、赤い唇からはゆるゆると漉し取った煙がややあつて吐き出された。

ようやくひとごこちがついた、という声に長谷川は苦笑した。
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