書庫3

□褪せない寓話
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ぬるい風が一声泣いて、果てた。

暗い森の底までは頭上高くに燦燦と光を振りまく火の星の威光も届かぬ。
いつから其処にあるのかも分からぬ巨大な幹の間、地上へと張り出したいびつな根を避けて歩く足下だけが確かだ。黒い絹の裾が歩くたびにかすかな空気の動きにだろうか、ちらちらと揺れて翻った。

ひたりと奥まで行かぬうちに足が止まる。
頭上を覆う藤蔓で編んだ笠を一寸上げて、青年は下から現れた朱金の瞳を細めた。

「久しく来てみりゃあ、悲惨だな」

轟。

呟いた声に共鳴するように、初夏に似合わぬ澱んだ風が吼え、高所にある枝がみしみしとしなった。
青年が眉根を寄せて一歩横に避けると同時に、一秒前まで立っていた場所に太い朽ち枝が直撃し、ばさばさと枯れた葉を撒き散らした。
立ち上った土埃に青年は小さく肩をすくめて視線をもどす。

「酷い挨拶じゃねぇか、宗」
『……汝れか』

其処には女が立っていた。

先刻まで其処にはただ大樹が在っただけだったはずだ。ちらりと伏せていた目を上げる仕種が婀娜だが、その切れ長の目尻にちらちらと押さえつけきれぬ激情の跡が見える。

ただの女ではない。

蒼白く光沢を帯びる紫銀の髪に、真珠のような艶を持つ肌をしている。
単を何枚も重ねているだけではなく、真白い帯を締めた腹は緩やかに膨らんでいた。腹をゆっくりと撫でる、人の者よりも少し長い指だけが穏やかだ。
凝、と青年を張り出した根の上から見下ろす瞳はぎらぎらとした紅色をしている。
どれもこれも人の持つ色合いではなかった。

『驚かせるでない…ついつい殺してしまうところだったではないか、歳(サイ)…』
「そんなにヤワじゃあねぇよ。いつまで子ども扱いしてんだか」
『なんの、汝れなどまだまだひよっ子でしかないわ…先立てを走らせよと申しておるのに…』

叱る言葉に歳と呼ばれた青年は小さく口の端を吊り上げて苦笑した。
緩やかに紅色の綾紐で結い流された長い黒髪がざらりと未だ納まらぬ土埃にゆれて、滑らかに背中に広がった。にやりと笑った目の色は緋に近い朱に金を交えた鮮やかなグラデェションを描き、瞳に当たる光量に従い色相を変える。矢張りこちらも人のもつものではない。

「年寄りはいつまでも年下を子ども扱いしたがる」
『…歳!』
「あんたもそんな歳じゃあないだろうってことだ。そう気を立てると腹の子に悪いぞ」

声を荒げた女は腹の子、という言葉にたちまち沈黙した。きゅ、と唇を引き結ぶ仕種に歳…土方はもう一度肩を竦めた。押さえきれず身悶え、森中に充満させるほどの怒りを押さえつけるその顔は血色に目じりを染め、けれどそれすら女の人ならぬ艶やかさを増長させた。
その目で睨まれたならどんな剛のものでも腰を抜かし、こけつまろびつして逃げ出すだろう。
けれど同時にひと目見たなら忘れられもせぬ。
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