書庫1

□副長さん家の諸事情
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本当にいい月だった。青々とした月の良い晩だった。
呼吸のたびに肺を刺す空気が気にならないほど、美しい月の夜だった。
空を見上げて帰るなど久方ぶりだ。土方たちは毎日毎日あちこちをきょろきょろと眺める番犬の身である。路地裏を、人ごみを余すところ無く目を光らせ眺めているが、こんなに気を抜いて空をぼんやり眺めるなんて事は滅多にない。それが今は、肩の力をストンと抜いてしまって、きっと魂が抜け出してしまいそうな腑抜け面をきっと晒しているのだろう。今不逞浪士に斬りかかられたら本当に首を持っていかれてしまうかもしれない、とふと口元を緩めた時だった。

突然爪先に何が引っかかり、土方は咄嗟に傍らの壁に手を突いている。

上ばかり見ていた自分の不注意だが、折角のいい気分を邪魔されたような気がして、土方は眼光鋭く足元を睨みつけた。誰だ、こんな道の真ん中にゴミを捨てたのは。
だが見下ろした先にあったのはゴミではなかった。
道路の中央に投げ出された手足は白く、血の気が失せて青ざめている。左眼を覆う白が月光をはじいてまたたいた。猩猩緋の番傘は塀の脇に転がって、雪から守るものを失った派手な着物はしっとりと湿っているようだった。
その胸元、添えられた手の内から頭をひょこりと出した小さな猫がにい、とか細い声で鳴いたので。
思わず土方は頭上を再び仰ぎ見たのだった。


***

背筋にたゆたう重く気だるい眠気がすうと遠ざかると同時に、全身を覆った暖かさに高杉はうすらと右の目蓋を押し上げた。
途端に白々とした光が眼球を射抜く。いつの間にか朝になってしまったのだろうか。とすれば自分は路上で一晩を明かしてしまったのだろうか。
しかしそれにしては、この居心地の良い暖かさは何だろう。
再び目蓋を押し上げると、そこにあるのは朝焼けにまばゆく輝く空ではなく、飴色をした天井だ。
ここはどこだろうか。
否、それよりあの仔猫はどこに行ったのだろうか。
気だるい体を引き起こし、振り返った先の枕元に黒い毛玉を見つけて安堵する。
高杉が寝かせられていた布団の枕元、ミルクのたっぷり入った小皿に前足まで突っ込んで、ぺちゃぺちゃやっている仔猫は元気そうだ。思わず息を吐いた、その時だった。

「気が付いたか」

カラリと襖が開いて白いシャツに黒いスラックスの男が入ってくる。シャツの袖を肘まで捲った男は高杉の顔を見ると、咥えていた煙草をを携帯灰皿に押し付けた。
見たことがある顔だ、と思った瞬間高杉は脳裏にひらめいたいくつもの単語に眉を跳ね上げる。
見たことがある――――と思うのは当然だ。この男の顔には見覚えがあるどころではない。何度もブラウン管で見たことのある男。己を追い回す、真撰組の副長ではないか。
それが何故こんなところにいるのか。そもそもここはどこなのか。未だ寝起きの影響か、紗に覆われた意識を取り戻そうとする高杉に男は肩を竦めた。

「ここは俺の私宅だ」
「…なんでそこに、俺がいる」
「覚えているわけはねェな」

一人で勝手に頷いても男は手にした手拭を高杉に放って寄越すのだ。

「てめェがそこで行き倒れてんのを、俺が拾ったんだよ」
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