書庫1

□副長さん家の諸事情
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二月の頭、雪がほろほろ舞う寒い晩だった。

節分と同時にやってきた寒波が頭上で風を唸らせている。
ここしばらく雪といってもちらつく程度であった大江戸市中にセンチ単位の雪が降るのも久しぶりだ。おかげで交通が乱れに乱れているらしい。そのせいか、パトカーで通り抜けた盛り場も人気が幾分少ないような気がした。皆電車が止まるか心配で、早々に切り上げたのだろうか。
いつもは煩いぐらい賑やかなかぶき町が大人しいと拍子抜けしたような気分になる。いつもであれば巡察中に数回酔客に絡まれたりするのだが、今日はそういうこともなかった。

「ここで本当にいいんですか、副長」

繁華街を抜けたあたり、橋を渡れば川向こうとは違い住宅街の多いこちら側は、すっかりと宵闇に沈み込んでいる。
運転席の原田に断ってドアを開ければ、途端吹き付けた来た雪に土方は首を竦めた。車内に吹き込んでくる冷気に心配性の部下は声を上げる。

「何もこんな寒い日に私宅に戻らなくたって。屯所に戻りゃあいいでしょう」
「豆ぶつけられんのは朝だけで十分だ。今戻ってみろ、総悟の野郎バズーカに豆突っ込んで待ってやがるぜ」
「幾ら隊長だった麻にあんだけやりゃ飽きたでしょうよ」
「あの馬鹿があれくらいで満足するか」

朝方、目覚まし代わりに思いっきり豆を投げつけられ叩き起こされた土方である。
今日は二月三日、鬼副長たる土方を沖田が一年で一度、堂々と追い掛け回せる日だ。否、そういうと語弊がある。沖田はいつだって土方を堂々と追い掛け回し弄り回しているのだ。だが今日ばかりは沖田に便乗して悪ふざけをする隊士が居るから始末が悪い。おかげで土方は今日一日中、外回りを担当する羽目になった。屯所に戻ったら何をされるか分からない。
今日は余りにも寒かったから、鬼の副長を退治せんと鉛の豆玉をぶつけてくる攘夷浪士がいなかっただけましであろう。一日中狭い車中に詰め込まれたせいであちこちが凝っている。早く風呂でも浴びて体を伸ばしたいのだが、帰ったら今頃酒盛り中であろう沖田にまた豆をぶつけられるに決まっている。
そこまでつき合ってやる気にもなれずに直帰しようという土方だ。
とはいえ、仕事の鬼の土方が私宅になどそうそう戻っているわけではない。今から帰っても風呂に入って寝るだけだろうし、冷蔵庫にも何も入っていないだろうと原田は気を回しているのである。月に二・三度帰るだけの私宅にまともな食材はあるまいし、送るならばせめて私宅の前までと食い下がる原田に土方は苦笑いを口端に浮かべる。

「俺はお姫さんじゃねーんだ。こっから十分も掛からねェだろう。ほら、さっさとてめェは戻って宴会に混じってこい」
「でも副長ォ…」
「…今日はいい月が出てやがる」

ふと頤を巡らせて、土方は目を眇めるようにして天上を見上げる。
つられるように原田が見上げれば、ちらちらと粉雪まじりの風が雲を掻き分けたのか、淡い凍て雲の紗の向こうに月が顔を出していた。ほのか夜天に淡い燐光をまたたかせる月は蒼くさえざえとたたずんでいるのだ。
これを追いかけて帰路に着くのもたまには風情あって良かろうと土方はふと口元を緩める。
全く副長は気障なんだからと呟いて、原田はつるりとした頭を車内に引っ込めた。

「風邪ひいて明日休んでも知りませんぜ」
「馬鹿、するかそんなガキみてェなこと」
「どうだか」

軽く笑い声を残してパトカーが横合いをすり抜けていく。少し走ってからブレーキランプが二回点滅すると、白と黒の車体は角を曲がって消えていった。
エンジン音が掻き消えてから、懐を探って土方は煙草を引きずり出す。足元から這い上がる冷気から守るように手を添えてマヨライターで炙る。紫煙が先端からゆらりと立ち昇った。肺の内にニコチン、タール、その他諸々を思い切り吸い込めば、やっと全身から力が抜けけるような気がした。
頭上を照らす柔らかい夜光が肩に、髪に落ちる。煙と一緒に吸い込んだ大気に肺がつきりと針先でつつかれたよう。肺胞が凍ってしまいそうな空気にひとつ身震いをして、ゆっくりとたった十分、土方は夜の散歩を決め込むことにする。
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