盛り合わせ

□白薔薇を唇に
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雨に濡れた墓石の前に、一人の男が立っている。
その背は、やや丸みを帯び、まるでこの世の全ての厄災をその背に背負ってしまったかのように絶望に満ちていた。
傘で顔が隠れているとは言え、あの毒のある高圧的で無慈悲な彼の姿を知っている者にすれば、その悲し気な佇まいが、玖柳くりゅう組若頭補佐の、あの矢島だとは誰も気づかないだろう。
もう何分そうしているのか、袖を捲って腕時計を覗くと、自分が家を出てからおよそ30分が経過していた。
つまり自分も15分はここで、この誰が眠っているかも知らない墓の前で、立ち尽くしている事になる。
いくら季節はもう春とは言え、気温は未だ15度を下回る。
傘からはみ出した矢島の肩は、しっとりと冷たい雨に濡れ、スーツの色を濃い物に変えていた。
「矢島」
オレの掛け声に、矢島は傘の中、切れ長で昏い目を細め、めったに人前で崩さない表情をこっちに向けて弛めた。
「坊ちゃん」
振り向いた矢島の、普段きっちりと後ろに流してある髪が、雨の湿気で乱れたのだろう、額にほつれて落ちる。
180cm近い身長と広い肩幅に、厚みのある胸板。スラリと伸びた四肢と、目を引くのは、指が長くて大きい男らしい手。
その上、既製品に収まらない、その男らしい体型にぴったりと合ったブランド物のスーツ姿を一見すれば、矢島がどんな部類の男か想像するのは容易かった。
強烈な男の存在感。オレでさえ感じる、危険な雄の匂いーーー。
こっちを振り向いた矢島のジャケットの釦は全開で、白いYシャツの襟には艶のあるエンジとグレーのストライプのネクタイ、その上に体の線に合ったベストを着ている。
見た目を裏切らない冷徹な男は、きっぱりと白黒を分ける性格で、その無慈悲な判断力と頭の回転の良さで、矢島は2年程前から若頭補佐の地位にいた。
30歳で若頭補佐というのは、業界で異例の出世だ。
そんな極道の男達からも恐れられるような男が、オレの前では「坊ちゃん」と優しく微笑むのだ。
「坊ちゃんって、呼ぶな。16だぞオレ」
矢島の笑顔から視線を逸らし、ズボンのポケットへ両手を突っ込んで悪態を吐く。
オレはもう、ガキの頃のように簡単に人攫いに合ったりする歳でも無いし、ただ護って貰うだけの弱虫じゃない。
「まだ、墓参りには早いだろ」
墓の中に眠る人間にヤキモチを妬くなんて、自分でもバカだと思う。けど、矢島が自分に対して持っている気持ちよりも、ここに向けている気持ちの方が勝っていると思うと、つい口が悪くなった。
縦長の墓石が並ぶ中、矢島の前にある墓石は低い台形で、西洋風。その見た目にも新しい印象に、痛々しさを感じてしまう。
墓前には茎のしっかりした花が生けられていて、墓の回りは草一つ生えてなく、綺麗な玉砂利が敷かれていた。
ここへ来る時、矢島が花を持っていなかったことから、もしかしたら、母が毎日のように墓前に供えている物なのかも知れない。
この美しい大理石の墓石の下には、オレの兄が眠っているからだ。
当時、矢島は10歳の兄を『坊ちゃん』と呼び、8歳のオレのことは『蘭』と呼び捨てだった。
「似合いますよ。坊ちゃん」
まるで、オレがこれから何て矢島に文句を言ってやろうかと、口を開き掛けたのを牽制するように、矢島が心にも無いお世辞を口にしてくる。
「学ランなんて、時代遅れだろ」
4月から通う高校の真新しい制服姿を矢島に見せたくて、出掛ける矢島の後をこっそり追ってきてみれば、矢島が向かった先は兄の墓参りという、なんとも気まずいシチュエーション。
矢島は冷たい雨の降りしきる中、兄が眠っているだろう墓石に向かい、ただジッとそれを見つめ続けていた。
そんな矢島の姿に胸が痛む。
矢島は兄の死を、どうやって受け入れたのだろう。
矢島はどれだけ、あの日の事を後悔したんだろう。
兄の死の一端でもある自分も、本当ならば死ぬ程後悔していなければいけない筈なのに、どうしても記憶の曖昧さからか、心底、罪の意識が沸いてこない。
兄の死のきっかけを作ったのは自分だ。
矢島が後悔する必要はどこにもない。
けれど、今更だった。
なぜなら、何を後悔しても、8年も前に兄は死んでしまい、きっと矢島は8年前からずっと後悔しているだろうから。

「私が学生だった頃は、学ランばかりでしたから、懐かしいですよ。そんな格好をされると、坊ちゃんが急に大人びて見えますね」
言って欲しい事を言われてるのに、どうしても素直に喜べなくて「じゃあ坊ちゃんって呼ぶなよ」と、また悪態を吐いてしまう。
黙って矢島の後を付いてきた自分のバツが悪いことはわかっている。
着いた場所が、まさか兄の墓だった事は、矢島が悪いわけでもなければ、自分が悪いわけでもない。
ただ、この場所で、矢島にどんなに褒め言葉を掛けられても、素直には喜べない。
今から8年前、ヤクザの組長の長子である兄が誘拐され、そのまま帰らぬ人となった。
当時、矢島は長子である兄の護衛を任されていたらしいが、兄が誘拐されたその時、矢島はオレの傍に居た。
が、オレ自身は、その時の事をよく覚えていない。
なんだかその部分だけ、黒い絵の具で写真をぐりぐりと塗りつぶしてしまったように記憶が途切れているのだ。
漠然と、覚えていない。
ただ一つだけ確かだったのは、矢島がオレの手をずっと握ってくれていた事だけ。
それだけはしっかりと覚えていた。
「蘭」
不意に名前を呼び捨てにされ、反射的に顔を上げると、真正面から矢島の目と目が合った。
しまった、と思っても、もう遅い。
一度合わせた視線は外してはいけないルールだ。
これが獣なら、視線を先に外した方は、次の瞬間に喰われることになる。
緊張に体が強ばり、呼吸すら浅くなる。
すると、矢島がクスリと笑ってオレに手を伸ばした。
大きな手がオレの髪に触れる。
クシャクシャと矢島に頭を撫でられ、
「取って喰いやしない。お前が嫌なら『坊ちゃん』扱いもやめる。どうする?蘭、決めていいぞ」
と、いきなり選択肢を突き付けられ、呆けたオレは手から傘を滑り落としそうになり、矢島から視線を切ってしまった。
落とし掛け、下を向いた傘の柄を握り直して持ち上げていくと、オレの視線が、矢島の足から腰、胸、肩の順に矢島の体を辿り、最後に矢島の顔を捉えた。
こっちを見下ろすその表情はやわらかい。
何年かぶりに名前を呼び捨てにされたせいか、胸がドキドキする。
自分の顔が赤い気がして、鼻の辺りを手で触ってみたが、触ってもよくわからない。
顔が熱くて、矢島の顔を見れない。
そんな風に聞かれたことに返事出来ずにいると、矢島がまた手を伸ばし、オレの肩の上の雫をパッパッと振り払った。
「坊ちゃん、雨が強くなってきた。戻りましょう」
矢島は、今度はその手でオレの手を握ると、ここへ来た道を引き返して行く。
それが、なんだか涙が出そうなくらい嬉しいんだけど、やっぱりオレは素直に喜べない。
「結局、坊ちゃんかよ・・っ」
照れ隠しに吐き捨てると、矢島が振り返らず、溜め息混じりに答えた。
「小学生だった蘭が、もう16か・・早いもんだな。蘭、もう少しガキでいろよ。手間の掛かるガキでいろ。そうしたら、もっと可愛がってやる。オレが何でもしてやる」
そう言って、繋いだ手を強く引き寄せられ、矢島の背中が目の前に迫る。
大きな背中を見つめ、オレは返事の代わりに、矢島と繋いだ手にギュッと力を入れて握り返した。
兄の墓地がある寺は、家から歩いて10分程度の所にある。
本当なら、墓地に着く前に矢島に声を掛ければ良かったのだが、矢島が珍しく車にも乗らずに歩き出したため、一体何処へ行くつもりなのかと興味を引かれて、後を追いかけてしまった。
黙って付いて行ってしまった気まずさはあるが、内心、行き先が墓地だとわかった時にはホッとした。
もしこれが、女の部屋や、女との待ち合わせ場所だったりしたら、後を追いかけた自分の能天気さに腹が立ち、真新しい制服をその辺に脱ぎ捨てていたかも知れない。
でも、実際に無い事では無い筈だ。
そんな事を考えていたら、思わず口から溜め息が零れてしまった。
「坊ちゃん?何か悩みでもあるんですか?」
前を向いていた矢島がオレを振り返る。
「なんでもない」
慌てて首を横に振るオレに、矢島はどこか面白くなさそうな顔をしたが、「そうですか」と再び、顔を前に戻した。
たった10分の道のりだったが、オレは矢島と手を繋いで歩けた事がすごく嬉しかった。
手を繋ぐなんて、きっと小学生以来だと思う。
もしかしたら、矢島にとってはオレの警護のためだったのかも知れない。
だけど、それでも良かった。
二人きりになるのも久しぶりのことで、制服を褒められたことも、本当はすごく嬉しかった。
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