本編

□やさしい声
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やさしい声だった。

オレの名前を初めて呼んだワタヌキの声。
少しだけ感動してた。




しかし、ソレは。

サイアクな朝へと向かう序曲だった。


部活の終わった帰り道。
珍しく、自転車の前に乗った大男(188cm)は、オレに一言も、許可を取る事も無く、勝手に自宅へと走らせた。
「オレ、今日は帰リマスヨ?明日、金曜なんだから明日なら泊まれるけど・・」
「あー?何?なんかあんのか?」
ワタヌキは、ガチャガチャとマウンテンバイクのギアを変えながら猛スピードで裏道を走る。
よく部活の練習の後で、オレ(178cm)を後ろに乗せて、これだけ漕げるものだ。
茶色の真新しい家がいくつか並ぶ道を右に曲がると、ワタヌキの家のグレーのマンションが家並みの間から見えてくる。
「センパイ・・・こそ、なんも言わないで、ここまで来るって・・」
ここまで言って迷う。
”勝手だ”
と、言ってしまおうか、これを言ってしまう事で後悔しないか、オレ は思考を巡らせた。
このオトコには、十分に言葉を吟味して話さなければ、全ては自分に返ってくるのだ。
どうしたって勝ち目が無いのは今までの経験が物語っている。
何度逃げようが、拒もうが、このオトコには通用し得ない。
「もう、着いた」
あきらめろ。
って感じにチャリは高い音で止まる。
だが、今日だけは、オレは諦めるわけにはいかない。
なぜって?そりゃスペインリーグが深夜放送する日だからだ。
しかも、レアルvsバルサ。
このカードを見逃すわけにはいかない。
もうレアルは最強のチームじゃないって書いてる雑誌もあるけど、
オレは最強とかを期待してるわけじゃない。
最高のサッカーの試合を期待してるだけ。
ファンタジスタの技を見逃したくないだけ。
世紀に残る、パス回し、ヒール、スルー、シュートを見たいだけだ。
だから、今夜はなんとしても帰りたい。
夜中なんだから静かにしろって怒られても家でテレビが見たい。

だが、このオトコが泊まりに来たオレに何もせずに夜中まで起きているわけがない。
例え、起きていたとしても、それじゃ、1時半になったからテレビ見るかって雰囲気になるとは考えにくい。
いや、そうこうなったら、時間とか気にしていられるかも不安だ。
ここで戻らなければ、絶対に見れないだろう。

ステップを降りたオレはワタヌキがチャリを置きにマンションの中
へ入って行くのを見て、ジリジリと後ろへ下がった。
後、数歩で道路に出る。
走るか。
今なら逃げ切れるかも知れない。
チャリを漕いでない分オレの方が走れるはずだ。
明日謝ればいいんだ。
よし!

「モリヤ」
「ハイッ」
「・・・なんでそっち向いてんだ?」
「あ、・・ネコ、見て、マシタ」
「・・・ふーん、行くぞ」
「ハイッ」

すげーコエェーーー!!
今、聴診器を持ってる人がいたらこの心音を聞かせたい。
たぶん不整脈打ちまくりまくってる。
心臓の弁が開きっぱなしになってるに違いない。

オレは痛む胸を押さえて、ワタヌキの後ろを追った。

ああ、意気地なし。根性なし。なんで走らなかったんだ。
イヤ、怖えーんだよ・・。アイツに追いかけられる怖さは十分知ってるんだ。だから余計に恐いんだ。
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