未来ノート

□突然帰って来た男
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『兄貴?』
電話からは、少しくぐもった、ふてぶてしい声。
時計はまだ朝の8時を回ったばかりだ。
「なんだ?こんなに早く電話してくるなんて珍しいな。ついに何かやったか?」
揶揄する言い方に、可愛い弟は舌打ちすると、『頼みがある』と切り出した。
「そりゃ本当に珍しい。お前が俺にオネダリするなんて、高校の時以来じゃないか?」
その台詞に、星路(セイジ)は口籠る。
「お前も一人前だ。血の繋がった兄弟のよしみで聞くだけ聞いてやるが・・ヤクザの兄貴をパシる気なら容赦しないぞ」
笑顔で脅しつけながら、路流(ミチル)は可愛い弟を心配した。
日の当たる場所で頑張っている弟に、こんな腐った兄貴がいるなんて世間に知れたらとんでもない。
星路が大学を3年で中退しプロになる時に、路流は一方的だが兄弟の縁を切った。
「困った事があれば、助けてやる。だが、当てにはするな」
人間は弱い生き物だ。
何かあった時、崩れそうな時、目の前にある逃げ道に飛び込まないでいられる者など、多く無い。
一時の気の迷いで、受け入れてやれるような懐は、自分には無いのだ。
一度引き込めば、後戻りは出来ない。
それは、自分自身も相手もだ。
ドロドロに腐った暗い陰から、明るい太陽の光りを眩しそうに見上げるしか出来ない世界だ。
そんな世界に、浸からせるのは・・・一人だけでもう十分だった。

「志路(シロウ)だけで十分だ」

そう独り言を漏らした自分に、星路はサバサバと答えた。
「ふ〜ん。じゃあ、あんまり連絡しないようにするわ。ケイタとマンション決めたら一回連絡入れる。じゃ」
無表情に手を振り、その場から退散する弟の肩を引き止め、路流は慌てて「メールは平気だから」と言い直したのだった。




まったく可愛くない。






「で?アイツなんだって?」
事務所の革張りのソファーには志路が無精髭の生えた顔で新聞を開いていた。
こっちをチラリとも見ないその態度が気に入らず、新聞を奪って半分に裂いてやる。
「あーーー!」
悲痛な声をあげた志路がバラバラに床に落ちた新聞を拾い集めそれを整える。
だが、半分になった新聞に読む気を失くしたのか諦めてテーブルの上へ置くその姿に口元がニヤけてしまう。
「綿貫龍斗が明日の05時にスペインに帰るから車を貸してくれだと」
「日本に来てたのか?シーズン中だろ?」
この名前を知らない日本人は少ない。
現日本代表FWで、某有名スポーツメーカーのCMには複数年単位での契約。
本人が日本に居なくても、そこら中に彼の名前の入ったポスターが貼られ、テレビCMは年中流れているのだ。
「・・・・・」
「・・・・・」
暫し二人で黙り込み、目で確認する。
わかっている。
これがどんなに美味しい獲物でも、これにだけは食いつく訳にはいかない。
叩けばホコリ・・金の為る木(体)だとしても、この一線だけは超えられない義理がある。
死ぬ程可愛い弟を裏切るような真似だけはしたくない。
それがこの二人の、生きて行くための大事な矜持だ。
「しょうがねえな・・。成田まで30分で送ってやるよ」
「コラ。ヤクザの車に乗せる気かお前は・・」
「300キロ出りゃなんだっていいだろ。要は追いつかれなけりゃいいんだ」
「どうやって降ろす?」
「路肩で星路にバトンタッチさせる。そっからは乗り換えた車で普通に走ればいい。こっちの車はナンバーを換えて逃げ切る」
「なるほど・・・アイツが早起き出来るかが肝だな」
腕組みして唸る路流。
「これは・・直に起こしてやった方がいいな。今夜は空けておいてくれ」
「・・・アンタ、久々に星路から連絡来て相当ウカれてるだろ・・」
呆れ顔で見つめる志路の冷たい視線から逃れるべく、口元を押えてパソコンを立ち上げる路流だった。





斯くして、綿貫が知らぬ間に、スペインへの復路、成田までの足が確保された。
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