黄水晶の書棚(その他二次創作・一次創作)

□たまご侍、旅に出る。
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さて、少しばかり時を戻そう。
この稲荷丸、昔から聡明利発な少年ではあったのだが、周りの子とは少々違った奇想天外なものの見方をしていた。
『鶏は、どうやって卵を産むのだ?』
『どうして赤茄子(トマト)は夏に出来て、春には出来ぬのだ?』
『どうして青菜に塩を振ると、水が出てくるのだ?』
『どうしてタラの芽は食せるのに、馬鈴薯の芽には毒があるのだ?』
『きのこ類は、野菜とは違うのか?』
『どうして蒸した大豆と塩で味噌ができるのだ。物の怪が妖術を使ったのか?』
毎朝の日課である武芸の稽古が終わるなり、厨に潜り込んでは女中達にまとわりついて質問責めにしていた。
『若君様、邪魔でございます!』
『堪忍してください。朝餉のお仕度が遅れてしまいます!』
一体何度、厨番衆の仕事の邪魔をしてそのように叱られたか分からない。
そしてその質問癖は、学問所でも例外ではなかった。
特に本草学の時間になると、先生や学友達は決まってうんざりさせられた。
稲荷丸の質問が終わらないからだ。
『このように春の七草には、腎や肝を養い骨の発育を助けるものも……』
『先生、どうして草を食べただけで骨が強くなるのですか?』
『それは……昔の人が長年研究して記録に残してきたからだ』
『それでは答えになっていません。七草のどの成分がどう腎や肝に作用するのですか?私は七草を食べた時に体の中で何が起こるのかを知りたいのです』
『全くいつもいつも、授業の妨げになる質問ばかりしおって……!』
昔から料理を作る事や食べる事に興味を示し、殊更、並大抵の人なら普通に食べてしまうだけで気付きもしない事に関しては、稲荷丸は人一倍聡かった。
彼が十の時だ。まだ妹の翡翠姫が産まれて間もない頃、産後の母上に滋養のある物を召し上がって欲しかった稲荷丸は、古い料理書を引っ張り出して見様見真似で拵えようとし、厨を燃やしかけるという大事件を起こした。
包丁で手を切らないようにと、危なっかしい手付きで鮎を捌くのに集中し過ぎて、竈の天麩羅鍋から眼を離していたのがいけなかった。
高温で煮詰まり過ぎた揚げ油に、水気もろくすっぽ切ってない鮎を入れた途端、白煙と共にバチバチと轟音を上げて、油が爆発したのだ。
危うく厨から火が出そうな騒ぎになり、普段は温厚な父母も、この時ばかりは流石に怒髪天を衝いた。
『お前はそれでも武家の子か!家族と家臣を守るべき立場の者が、逆に危険に曝すとは何事だ!母上に要らぬ心労を与えおって!』
『『おのこ厨房に入らず』という言葉があるように、炊事の勝手も分からぬ殿方が厨に入っても、迷惑なだけです!一体誰がこの始末をすると思うているのですか!』
幸い人や屋敷に被害は無かったものの、通い妻を一人も持たずお豆の方だけを愛しておられた父上は『この程度で済んだからこそ、二度と繰り返さぬように厳しく罰する!』と、その日は食事抜きの上、一晩縛り上げて鶏小屋で寝させるというお仕置きを稲荷丸に下した。
この事件から稲荷丸は、料理とは常に怪我や事故の危険性と隣合わせだという決まり事を、嫌という程叩き込まれた。
元々質問地獄に困らされていた厨番衆からの当たりも強くなり、厨に顔を出せば相手が若君だろうが容赦無く追い出された。
先走る知的好奇心と知識欲、自分以外の誰かに料理を振る舞いたいという優しさが周囲に理解されず、いつも叱られてばかりいた稲荷丸。
そんな彼の唯一の理解者が、母方の祖母・雷光院だった。
幼い頃は夏になると、家族総出で毎年信濃へ避暑に行っていた。
雷光院は性別の隔てなく孫達を愛する心優しき祖母で、翡翠姫が産まれた時は『待望のおなごじゃ!』と愛おしみ、石英丸が古典に興味があると聞けば古今和歌集の写本を贈り、いつも野山を歩いては稲荷丸に食べられる草花の話をしてくれた。
『稲荷丸や、お前は間違ってなどおらぬよ。この世の食べ物には全て、人間の体を作る為の眼に見えない力が備わっておる。お前はその正体を見極めたいだけなんだね?』
『ばば様……』
『そんなに食べる事が好きなら……いっそ食べ物の勉強をしたらどうな?』
『食べ物に、勉強があるのですか?』
『勿論あるとも。稲荷丸は賢い子だから、江戸の平賀源内先生の事は知っとるな?』
『うん!エレキテルの人でしょ?』
『そうだ。でもその前に源内先生はな、土用鰻に夏バテや脚気を予防する『眼に見えない何か』が含まれておる事に、日ノ本中で誰よりも速く気が付いたんな。日ノ本中で誰よりも速くだに?』
『すごい……!』
『それがな、命を栄えさせ心身を養う……栄養学っちゅう新しい学問だ。唐国の薬膳学の教えが根幹にある学問でな、阿蘭陀やエゲレスでは既に研究が進んじょるが、日ノ本はまんだまんだ遅れとらっせる。鎖国に押されてその方面に興味を持つ学者が中々おらへんでな。稲荷丸や、お前はこの国の栄養学を、もしかしたら西洋と同じ土俵に上げられるお人になるかもしれんなぁ……』
優しい信州弁で紡がれる祖母の言葉は、稲荷丸の心に深く沁み込んでいったのだった………


それから時は流れ、稲荷丸が齢十二の頃。
父が頻繁に空咳をして床に就くようになり、御匙から肺結核と診断されたのだ。
父は奥に隔離され、遂に最期の刻まで襖越しにしか話せなくなった。
雪が降りしきる、朝の事だった。
稲荷丸を始めとする家の者達は父の寝所に呼ばれ、襖越しに最期の会話を交わした。
『稲荷丸よ……雷光院様から聞いたぞ。学びたい事があるなら、どうして先にわしに言うてくれなんだ……?』
『ごめんなさい父上。私はいずれ鳴神家を継ぐ身ゆえ、言った所で反対されるだけだと、ずっと思うておりました……』
『ごほっ……たわけ者めが……!問題行動ばかりで先生方さえ匙を投げたお前が、初めて自らの頭で考え学ぶべき事を見つけたのだ……この父が嬉しゅうない筈がなかろう……!』
『父上、それでは……!!?』
『稲荷丸、石英丸、翡翠姫……父と母は常々お前達に説いてきた筈だ。誰に恥じる事もなく各々が納得のいく生き方をせよと……!』
話している間にも、父の喀血が徐々に酷くなる。
命の火種が、もうすぐ尽きようとしていた。

『石英丸、いつも勤勉で真面目な自慢の息子よ……稲荷丸は正直あまり充てにならぬ。苦労をかけるが、もしもの折には御家をよろしく頼むぞ……』
石英丸が、涙を堪えきれずに叫んだ。
『そんな……!父上!まだ逝ってはなりませぬ!』

『翡翠姫、愛しき娘よ……そなたは綺麗な瞳をしておる。必ずや母上に似て器量良しになるであろう……』
状況が読めずにきょとんとしている僅か二つの翡翠姫の代わりに、母上が答えた。
『姫や、御父上はこれから遠くの国へ逝かれるのです。笑顔で送って差し上げましょうね……』

『稲荷丸、破天荒な悪童め……ようやく己の道を見つけたな。それだけで父は何も思い残す事はない。存分に世界へ羽撃いて行くがよい……』
『っ……!』
嫡男として産まれた己が決して人前で泣くまいと、稲荷丸は最後まで歯を食い縛っていた。

『そして、お豆よ……わしの唯一人の人よ……先に浄土で待っておるからな……必ずや来世でも共に生きようぞ……!』
父が最期の火種を燃やし尽くして紡いだのは、妻への愛だった………


父上が亡くなって以降、母上は一切の泣き言を封じて強く振る舞うようになった。
暇乞いをして屋敷を離れる家人もいる中、菜種丸だけは『わっちの今の主はお豆の方様で御座います』と残ってくれた。
母上は去る者には充分な退職金を持たせてやり、また残る者にはより一層気を引き締めるようにと励ました。
そして親戚連中と丁々発止渡り合った末、子供達の為に家督を守り抜いた。
『石英丸、真に良いのか?そなた歌人になりたがっていたであろう』
稲荷丸はこの時、齢十三。二年飛び級して学問所を卒業したばかりであった。
『兄上、別に歌を詠みながらでも当主は出来ます。それに父上も今際の際に仰ったではありませぬか。兄上は己の道をゆけと』
『全くそなたは、私には勿体なき良く出来た弟だ……』
『それより兄上、お時間はよろしいのですか?そろそろお師匠様が……』
『む、いかん。つい話し込んでしまった!何せ年十五回の講義に二年間、計三十回受けねば藩主様からの遊学御墨付きが下りぬのでな。遅れる訳にはいかぬのだ!』


稲荷丸、改め鳴神兼定。
やがて長崎で栄養学を極め、さる貴き御家に御膳頭として仕え、生涯の主に出逢い、のちに『たまご侍』と呼ばれる男の始まりの物語であった………

【完】


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