お題

□水鏡
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ずっと水面に映った自分の顔を見ていた。
小さな音と共にゆっくりと波紋が広がり、はっきりと見えていた顔が揺らいだ。
井宿は、その音の元を辿り水底にしずんだ小石に行き着いた。

「…何しけた面しとんねん。」

ゆっくり立ち上がり振り返ると、朝日に輝くオレンジの髪が目に入った。

「…翼宿。珍しく早いのだ。まだ皆寝ているのに。」

普段と変わらぬ狐面。
柔らかな微笑みをたたえたまま動かぬ表情。

「目ぇ覚めてもうたからな。…で、お前は何してんねん?」
「オイラは目を覚ますために顔を洗いに。」
「…面つけたままでか?」

静かに繰り返される問掛けに井宿は―あぁ、彼には全て分かってしまっている― と感じた。

「…寝惚けてたのだ。さぁ、そろそろ皆も起きる頃だし…戻るのだ。」

曖昧に微笑んで誤魔化すと踵をかえす。
その時視界の隅に入った彼は、何か言いたそうにしていたように見えた。
伸ばしかけた腕を下ろし、拳を握っている翼宿の視線だけが井宿の背へ突き刺さる。
振り返りたい衝動に駈られる。
けれど。
振り返ってしまったら、もう逃げることは出来ないだろう。
自分が水鏡の向こうに見たもの…否、見ているものを話さなければいけなくなってしまうだろう。
いつかは話すのかもしれない。
彼に…彼等に。
でもそれは今ではない気がする。
井宿は翼宿の方に振り向くことなく草むらの向こうへ消えていった。

「…くそっ」

井宿のいなくなったあと、川岸に残された翼宿は一人その場にしゃがみこんでいた。
ゆっくりと水面を覗き込む。
先程の井宿は、ここに何を見ていたのだろうか。
自分では力になることはできないのか。
波紋が広がる。
今度は小石でなく、悔しさに流れる涙が波紋を産み出しているのだ。
歪んだ水鏡が翼宿の顔を映している。

翼宿はそこに井宿の顔を見ていた。
そして、井宿はそこに―…かつての親友と恋人の、飛皋と香蘭を見ていたのだった。

翼宿が井宿の辛い過去を知るのは、今はまだ遠い未来のこと。
静かに揺れる水鏡だけが二人を見つめていた。




     END




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