Short小説
□ゲーム
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それは本当に突然に。
ゲーム
薄暗い教室。夕暮れたときから灯るグランドの蛍光。校門から僅かに離れたところに佇むカーブミラーは対向車線から走ってくる軽乗用車のライトを反射させる。
コチコチコチ…。
準備室の隅、上にある丸い安物の時計の秒針が、嫌に静かなここで嫌になるくらい大きく響いた。
大丈夫大丈夫大丈夫。
息を潜めて身体を縮こませ、バクバクうるさい胸をぐっと掴む。左右に高くそびえ立つ資料の山。酸素が少ない。苦しい。まだか、まだ時間は来ないのか。
さっきから後少しってばかりだ。後少し後少しって思うのに、全然進んでくれない。こんなにも秒針がうるさいのに。
カツン…。
あまりに小さくて幻聴かと思った。幻聴だと思いたかった。ハッとした瞬間ひゅっと喉が引き攣った。
カツン…。
カツン、カツン。
まだ遠くから、けれど確かに足音が近付いてくる。
来る来る来る来るアイツが来る。来ないで気付かないで逃げないと逃げなくちゃ早く早く駄目だ今出てはいや今逃げないと今、今!
資料の山から這い出る。今はまだアイツは気付いていないはずだ。早く!早く!
急いで、だけれど音は立ててはいけない。廊下側とは別口のドアからそっと、出てそれからとにかくひたすら駆け出した。
走って息がまともに出来なくて苦しい。振り返らない振り返れない。走れ。でないと。
一体何故、こんなことに…。
「はーない!おっつー」
「お〜。田島か。どした?」
「いや、俺んちから花井が見えたもんで」
下校時間、誰もが帰っていった後しばらく経ってから。今日の放課後は部室の掃除だなんて一人思って片付けていた。しばらく掃除していなかったソコ。野郎ばっかがいる部室だから何が置いてあるかわからない(田島を筆頭に猥モノ雑誌が出てきたりする)。よって篠岡に頼めるわけもなく。
けれどあまりに汚いソコは俺のA型根性を刺激して。仕方ないなと、久々の休み返上覚悟で取り掛かった。
だから、ここには俺しかいなかった。
「花井えっらいな。掃除してくれてたんだ」
「まぁな〜。汚ぇんだもんココ。気になっちまって」
「うっわ。モロA型精神」
「るせ。典型的B型人間に言われたかねぇよ」
「アハハーそれもそうだ」
笑って頭の後ろで腕を組むアイツ。この時までは普通だった。俺もアイツも。普通にくっちゃべって、普通にダチして、普通にチームメイトで。
どっからだ。おかしくなったのは。どっから、なんだ。
そう。それは本当に突然に。
「…ねぇ」
いつも通りの笑顔で。
「ゲーム、しよっか」
いつも通りのあっけらかんとした口調で。
「決まり。ゲームしよう、ね?」
いつも通り勝手に決められたんだ。
「なんだよゲームって」
「それはねぇ…」
「もったいぶんなって。どんなのなんだ?」
久々の休み。羽を伸ばしたいのもあってゲームって言葉に惹かれた。どんなゲームなんだろうって、童心にかえって好奇心を刺激された。だからじれったく話す田島がもどかしくて早く早くと促した。この時、さっさと帰ればよかったというのに。
田島が真っすぐこちらを見る。
「鬼ごっこ、だよ。はない」
くすり。と悪戯に目を細めて、そしてゆっくり笑った。その瞳の奥で鈍化した光がギラリと揺れたのを、俺は見逃してしまった。
「鬼は俺。逃げ切れたら花井の勝ち。捕まえたら俺の勝ち。わかりやすいでしょ」
「なんで鬼ごっこなんだよ。部活でさんざんやってるのに」
「アレとは違うよ。今回は花井の人生左右しちゃうんだから」
「はっ?」
人生を左右する鬼ごっこ?そんなわけのわからないことがあるか。たかが鬼ごっこで決まったら誰も苦労しないだろ。
ハテナばっかが浮かんでくる。それなのに田島はこの上なく愉しそうで嬉しそうにくつくつと笑う。
それがなんだか馬鹿にされているみたいでムッと腹が立った。だから、
「やっぱやめ。そんなん」
と荷物を整理して帰る支度を始めた。元々荷物って言っても鞄とスポーツバックぐらいだからすぐに整って、部室から出るためドアに向かった。田島を見ずに歩きながら言う。
「疲れるし。俺帰ってごろ寝でもするよ。なんたって」
久々の休みだし―…。と続くはずだった声が。
バンッ――――!!!
デカイ音によってかき消された。
目の前で腕を振り上げた田島。思い切り壁を叩いた拳の、思わぬ力の強さに無意識化で身体が引き攣った。
下に伏した顔を俺を縫いとめるように見上げる。そこにはあの笑顔はなく、無表情の上にギラギラとした暗い眼光だけがあった。
「なっ―…」
真っ向から見てしまって本能が逃げろと叫ぶ。足は、動かない。
「なに勝手に帰ろうとしてんの?」
ゆらりと身体をゆらつかせ、一歩、また一歩と近付いてくる。
「これはね、決定事項なの。わかる?」
「なん、で」
「断る権利も質問する権利も与えてないよ。無事帰りたいなら逃げ切ればいい。そうすれば花井の勝ちって言ってるでしょ?まぁ、逃がさないけどね」
田島の手が頬を滑る。人差し指で頬から顎にかけてラインを描き首を伝う。
「俺が勝ったら、花井は俺んのだから。これも決定事項」
「ひっ…」
その指が鎖骨のところで突如爪を立てた。あまり伸びていないはずなのに鋭く皮膚をえぐってくる。肉の裂かれる痛みに恐怖の声が上がった。
「いい声。大丈夫。俺が勝って、ちゃんと飼ってあげるよ。動物うちいっぱいいるし、安心して飼われてね」
それは、最期の宣告に聞こえた。
タイムリミットまで後少し。夕暮れもとっくの昔に去って今は夜だ。当直の先生ももう帰ってしまった。
先生に助けを求めることは出来なかった。話しなんかしていたらアイツに見つかってしまう。見つかったら最後。最期、だ。
隠れて逃げて、逃げて逃げてまた隠れて逃げる。
精神のギリギリまで追い詰められる感覚。爪によって裂かれた皮膚はミミズ腫れを起こして走る度に冷汗と風が傷口に染みた。痛い。埃っぽいところにも隠れた。箘が入ったのか熱も孕みじくじく体内を侵食してくる。
所有物に名前を書くのと同じように、俺に印を刻む。同じ場所に5分も居られない。いてもたってもいられない。傷を洗い流すことさえ出来ない。水音は、静かな廊下には響き過ぎてしまうから。
飼われるだなんて。
「…ぃゃだっ」
噛み締めた本音が小さく漏れた。
帰るんだ。家に。
帰るんだ。ほんの昨日まであった日常に。
崩れる前の俺達の関係に。やり直せたなら。どこから違ってしまったんだ。俺達は。
すぅ。と光もないのに暗闇が揺れた。
来たっ!!
息を潜めろ。息を止めろ。今からでは逃げ出せない。やり過ごせ、タイムリミットまで後数分なのだ。
「は〜な〜い〜あ〜ず〜さ〜?」
大丈夫大丈夫大丈夫。
大丈夫大丈夫大丈夫。
大丈夫大丈夫大丈夫。
繰り返す呪文。爪痕から精神に亀裂が入っていく。
「…っ」
発狂しそうだ。
喉が鳴りかけて唾液を飲むことも耐える。何音も出してはならない。捕まっては、ならない。
「どこかなぁ」
廊下で反響する嬉々とした声が近付く近付く。バクバクと唸る心臓さえももぎ取ってしまいたい!聞こえたら、この音が聞こえてしまったらどうすんだこの馬鹿心臓。
「あ〜ぁ。あとちょっとしかないや」
乱雑に置かれた荷物の山に隠れた俺のすぐ傍で、残念そうな声が聞こえた。
「せーっかく愉しいゲームだから長引かせて遊んでいたのに。終わっちゃうよ」
田島の声が頭の中で何度も何度も呼応する。ゲームが「終わる」?この追い詰められたゲームが、終わるのか?
まだ見つかってはいない。このままなら、俺の勝ちでゲームが終わる!
疲労が全身を覆う。その死んだような身体に希望という生気が僅かに戻ってきた。
「つまんないなぁ。終わっちゃうなんて」
やっと。やっとゲームが…っ!!
「まぁいっか。ねぇ?はー・なー・い?」
「っ…!!?」
暗い場所に居る自分に、さらなる影が重なる。
冷汗の染みたシャツで体温が奪われる。背筋が寒い。肌が冷たい。額には代わりに浮かぶ脂汗。
「みーつけた!!な〜んてね」
くつくつくつ。
笑う。鬼が、笑う。
人差し指が俺を指す。
この瞬間、人ではなくなった俺を。人を指すゆびで。
「あ。傷、腫れてるよ。これじゃあ痕残るね。嬉しいなぁ」
爪痕を愛し気に撫でた。
目の前が真っ黒く塗り潰されていく。
あぁ、ついに俺も壊れてしまった。
「なん、で、だよ」
それは意識を失う寸前、「花井梓」が残した最期の言葉。
倒れゆく視界の片隅で、鬼の口角が上がった。
「愛してるからだよ」
鬼は、そうしてまた、笑う。
ゲーム
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