夢幻狼

□序章
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序章




一一安政三年(1856年)




目が覚めた。目を見開き、そこに見えたもの……。


緩やかに流れている川、その周囲には大小様々な石が散らばっている。


此処は、川原だ……。空は明るい。辺りを囲むように木が茂っている。


匂いを嗅いでみる。澄んだ空気に、水と草木の青々とした匂いが鼻腔をくすぐった。


ゆっくりと状況を考える。そしてふと気付く、全身ずぶ濡れだ。

身を起こし、ばたばたと身体を震わせて水気を払った。


ふと自身の身体を見る。

四本足で立ち、全身が白い毛で覆われている。尻には房状の尾も生えている。


川を流れる水面を見下ろしてみた。


……見知らぬ顔があった。でもどこかで見た顔だ。当然だ。自分の顔を知らないはずない。

身体と同様、毛で覆われている。尖った立ち耳。突き出た鼻筋。目の色は金色だ。


この獣を知っている。

一一狼だ。

これが、自分の姿……。



何も覚えていない。

自分は誰なのか。どうして此処にいるのか。今がいつで、何をしていたのか思い出せない。


しかし目が覚めた時、自分の身体は濡れていたし、川の側で倒れていた。この川を流されてきたのは間違いないだろう。

だがそれ以上の解答は無い。それが不安だった。

しかし、と自分は思う。


記憶を失って目覚めたにしては、落ち着いてはいないだろうか。
狼の自分が他の誰かと比較など、できることではないのだろうが……。

しかし、そんなことを考えていること自体が落ち着いている証拠ではないだろうか。


とりあえず移動しよう。

いつまでも此処にいたって状況は変わらない。


めまぐるしく様々なことを考えながら、しかしどこか茫洋としている自分の心中を噛みしめながら、川原を後にした。



一一一
一一





腹が空いた……。

目覚めてから数日。今日までで口にしたのは野鼠一匹だけ。


当てもなく東へ移動し続けていた。自分でも何故かは分からない。ただ、何かがあるような気がした。

だが、そろそろ嫌気が差して来る。

前足の破れた肉球の痛みも酷く、既に体力の消耗は限界に達していた。


一一と、その時。

芳しい匂いが鼻を掠めた。


自分は知っている。

この匂いは……。




「一一!」

大当たり。匂いを辿ってみると、一頭の鹿の死骸に数羽の鴉が群がりその死肉をついばんでいた。

迷いは無かった。駆け出して吠えたてれば、鴉はあっさり空へと舞い上がった。


一度、口内に肉の味が染みればもう止まらない。
疲労とも重なり、ほとんど飲み込むように夢中で貪った。

一一だから、こちらに向かって襲撃して来る生き物に気づかなかった。



「ギャン!」

完全な急襲だった。

襲ってきたのは、自分より遥かにがっしりした体格の黒い毛の塊。月ノ輪熊だ。


「ゴアアッ」

熊は再び向かってくる。

今の自分は前足を負傷し、体力も限界。それにさっきの一撃で脇腹をえぐられた。致命傷ではないが、明らかに俊敏性を欠いた動きとなる。


逃げれば良かったのに、この幼い雌の白狼は立ち向かった。最後の力を振り絞って熊に挑んだ。

それは到底、勝ち目のない戦いだった。



「ギャッ!」

狼のそれと違い、熊の前足の一撃は強力である。
首筋に噛み付くもあっさり払いのけられ、地面に叩きつけられた。

このままでは……。そう思った時だった。


―…ドコン

「!?」

突如、鼓膜を刺激した爆音。その直後、熊はその場に崩れ落ちた。


銃で撃たれたのだ。

熊は銃弾に頭を撃ち抜かれ即死だった。



「こいつ、無茶しやがる……」

現れたのは、二本足で歩く生き物一一人間だ。

銃を持っているのは勿論、弾が飛んで来た方向を考えても、銃を撃ったのがこの男であることは間違いない。
四十歳は越えているであろう初老の人間。がっしりした体格の、理知的な目をした精悍な男だった。


「おまえ、頭がイカレちまったか?それとも……死ぬほど飢えていたのか?」

「………」

そう言って近付く男に一瞬身構えるも、男の纏う空気や言動に警戒すべき点が見当たらない事から構えを崩し、その場にへたり込んだ。


「……おまえ、なかなか良い面構えをしてるじゃねえか。来るか?この白銀長次郎のところに」



一一白銀 長次郎

長年この地で猟師を営んでいる老マタギ。

彼は熊を追って偶然に通りがかったのだ。




もしも、熊と戦わずに逃げていたら……。

長次郎の追っている獲物が熊でなかったら……。

居合わせたマタギが長次郎でなかったら……。


いずれにせよ、彼女の人生は大きく変わっていたであろう。


全てがここから始まる。

彼女の波乱に満ちた運命の始まりであった一一。






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