□ある日の幸福論
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穏やかに薄紅色の花弁を纏った風が、頬を擦り抜け髪を撫でる。

仄かに草木の香を孕んだソレを全身で感じながら、私はまた一歩梯子に足をかけた。
ギシギシと軋む音と共に、着実に空へと近付く。


「…よいっ、しょ」


ようやく辿り着いた瓦の感触を確かめ、一気に屋根の上へと身を乗り上げた。


「ふぅ…やっと着いたぁ」


上っている最中より、遥かに質量を増した風によろめきながらも、少しずつ奥へ足を進めた。


「この辺…かな」


いつも見上げていた姿を思い浮かべながら立ち止まり、眼下に広がる光景に瞳を向ける。

どこまでも見渡せる美しい景色に、思わず溜め息が零れた。


(…あの人はいつもこんな景色を見てるんだ)


風に弄ばれる髪を押さえながら、目の前の絶景に酔い痴れる。

その刹那、何者かの手が右肩に乗せられた。


「きゃぁッ!!」


予想だにしない出来事に、驚きのあまりバランスを崩し前のめりに身体が傾く。


(落ちる…ッ!!)


きつく目を閉じ、訪れるであろう浮遊感を覚悟するが、それは素早く腹部に差し込まれた何かによって阻止された。

そろそろと瞳を開けると、見知った小手を身に付けた腕が目に入る。
それが意味するものは、只一つ。


「こっ、こたろうさん…ッ!?」

「………」


顔だけでなんとか振り返った先に、風に揺れる深紅と深く被られた兜が見えた。

背後から抱き留めるように私を支えてくれた小太郎は、小さく息を零すとゆっくり私を支えていた腕を解く。


「あ、有り難うございます」


改めて、真正面からその姿をとらえて口を開いた。


「お帰りなさい。お仕事、もう終わったんですか?」

「………」


朝から祖父の命であちこち飛び回っていたであろう小太郎に問い掛けると、こくんと頷いた。

さり気なく座るよう促され、その場に腰を下ろすと、続くように彼も隣に腰掛ける。


「…………」


じっと送られる視線と、彼の纏う雰囲気が普段と少し違うことに気付き、恐る恐る口を開く。


「えっと…怒ってます?」

「………」


静かに縦に動いた首に、うっと息を詰まらせた。

小太郎は足元を指差し、『どうして此処に居るのか』と言うような仕草をする。

只でさえ言いづらい事をよりによって本人に言わなければならない状況に、何とか逃れられないかと思考を巡らせるが、じっと見据える小太郎の雰囲気が逃がさないと告げていた。


「……くだらない理由だと思われちゃうかも知れないですけど」


意を決して、眼下に視線を固定したまま言葉を紡ぐ。


「小太郎さんが、いつも此処からどんな風景を見てるんだろうと思って……私も見てみたくなったんです」

「………」


どこか気恥ずかしくなり、恐る恐る小太郎に視線を向けた。

相変わらず全く表情は読めないが、先程まで纏っていた雰囲気が消えていた事に小さく安堵した。


「…凄く綺麗ですね」

「………」


再び、広がる景色に視線を移し呟くと、つられるように小太郎も正面へ視線を動かした。

ずっと見上げていた相手と並んで座り、同じ目線で同じ光景を見ているんだと思うと、この美しさが何倍にも増幅するように感じる。

自然と弛む口角を抑え切れずに、思わず笑顔が零れた。


「………」

「なんですか?」


ぽんっと肩を叩かれ、小太郎に視線を向ける。

彼は、私が登ってきた梯子を指差し、静かに首を左右に振った。


「えっと…もう登っちゃ駄目って事ですか?」

「………」


小さく肯定の意を示す小太郎に、思わず表情が曇った。

確かに、姫という肩書きを持つモノが居ていい場所ではなく、少しでも足を滑らせれば怪我などでは済まない事も承知している。
しかし、心地よく吹き抜ける風や広がる絶景は、諦めるにはあまりに忍びない。


「…どうしても駄目ですか?」

「………」


悪あがきのように見上げる私を見据え、彼は小さく息を零すと、トントンと足元を指差し、続けて己を指し示した。


「…此処に、小太郎さん?」


彼が伝えたいことを推し量ろうと思考を巡らせる。


(…まさか)


行き着いた言葉は、あまりにも自分に都合良く解釈したモノだったが、小さな期待に突き動かされ恐る恐る声に乗せた。



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